2012年10月23日火曜日

ボリビア③

再び南米に戻り、ボリビアを続けて紹介していきます。

歴史編①















1.先史時代(プレインカ)
BC1500年、アンデス山脈の西側クスコを拠点にしてチャビン文化が興る。チャビン文化は周辺に大きな影響を与えた。そのひとつがチチカカ湖南東岸のチリパ文化である。
チリパは前期(BC1500~BC1000)、中期(BC1000~BC800年)後期(BC800~BC250年)の三期に分けられる。
前期では湖岸の動植物の採取、狩猟による生活が営まれていた。中期にはラクダ科動物の飼育や農業が興った。そして後期になると祭事儀礼の祭壇や半地下広場が作られるようになった。そこからはキノアやジャガイモ、土器などは出土している。
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チリパ文化の次に現れたのはティワナク文化(BC200~1150年)である。この文化は五期に分けられる。そのなかでも三期(300~500年)には巨大な祭祀建造物が作られた。四期には温暖な東部や南米の南部へ勢力を拡大させた。それはティワナク遺跡の太陽の門やポンセの石像に見られる文様がペルーのワリ文化などにも見られることからも明らかである。
またティワナクはすばらしい陶器や金の飾り物、彫刻の施された柱や石版を作った。その彫刻のデザインは彼らの指導者、そして神であるヴィラコチャが描かれている。 
 ★ヴィラコチャ
先住民族アイマラ民族の創造神であり最高神。またインカ神話でも最高神。アイマラ民族の神話では原初の時代にチチカカ湖に現れ、天地を創り、多くの民族を粘土で創った。その姿は頭に太陽をのせ、手には稲妻を持ち、雨の意味を持つ涙を目から流す姿で表される。そして最終的には敵対する住民を鎮め、海の彼方に去っていく姿が描かれている。インカの時代太陽神インティを最高神としたが、ヴィラコチャの神格が失われることはなかった。
その後五期(800~1150年)衰退する。この900~1475年の間についてはいまだ研究が進んでおらず、詳しくはわかっていないが、それぞれ異なる文化の民族が小さな文化圏を作り、暮らしていたとされる。

2.インカ帝国
15世紀後半になるとインカ族が興したインカ帝国が勢力を拡大する。もともとインカ帝国はクスコに拠点にしていたが、1440年頃、8代目の王ヴィラコチャ(ティワナクの神とは別人)はティワナクを制圧する。インカ帝国は彼らの宗教を禁止したが、言語や習慣はそのままにした。
またインカ帝国の呼称は征服後のスペイン人がつけたものであり、彼らは自らの国をタワンティンスーユ(四つの州)と呼んでいた。文字通り帝国を4つに分けて支配した。その中でボリビアはコリャスーユと呼ばれ、現在の公用語のケチュア語が普及し高度な都市文明(土木・建築・染織等)がこの時期伝わった。
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コリャスーユはインカ帝国にとって危険な土地であった。チチカカ湖南岸から東岸にくらしていた集団は度々インカに反旗を翻した。そのため討伐され、他の土地に以上させられた。そして代わりに別の信頼できる集団を連れてくるという政策(ミティマエス)がとられた。
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インカ帝国の繁栄は長く続かなかった。コロンブスが新大陸を1492年に発見後、多くの西洋人が訪れるようになる。1526年にはポルトガル人がラプラタ(現在のスクレ)方面からボリビアに進出し、インカ帝国が黄金を貯蔵している事を知り、征服者たちに「エルドラド」の夢を抱かせた。
インカ王ワイナ・カパックが死ぬと、内戦がおき、アタワイパが最後の正統な王となる。
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1532年、ペルー総督フランシスコ・ピサロは混乱に乗じて180人の軍隊をインカ帝国に侵入させ、王アタワイパを捕虜とし、莫大な黄金を手に入れる。その後王を処刑し、傀儡皇帝マンコ・カパックを王座に据えた。1533年ピサロはクスコを陥落させ、インカ帝国は滅亡した。180人でインカ滅亡させた裏には圧倒的な火力をもつスペインに青銅・新石器時代の武装のインカ帝国はなすすべがなかったからである。


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