2013年8月28日水曜日

ルクセンブルク②

歴史編①~独立まで












歴史
963年、アルデンヌ家のジークフロイト伯爵が今の首都ルクセンブルクシティーに
砦を築いてリュシュリンブルフクLuchilinburhuc 『小さい城』)を築いたことに
始まる。この名前が変化してルクセンブルク(Luxemburg)となった。
このころジークフロイトはアルデンヌ伯を名乗っていた。
     ↓
1083年、5代目のコンラート1世からルクセンブルク伯爵位が与えられた。
     ↓
中世(14~15世紀)ルクセンブルク家は神聖ローマ皇帝を4人輩出した。
またボヘミヤ王も4人だした。その中でも、1354年神聖ローマ皇帝と
ボヘミヤ王をかねて「金印勅書」を発行したカール4世によってルクセンブルク家は
公爵家に昇格。
     ↓
しかしルクセンブルク家はカール4世の代で断絶。1461年には
ブルゴーニュ公国に併合された。ブルゴーニュ公シャルルの娘マリーは
ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚。ルクセンブルクを含むブルゴーニュ家の
所領はハプスブルク家の支配下に入る。その後、息子のフィリップから
その息子カール5世へとハプスブルク家の巨大な領地と権力は受け継がれていった。
カール5世は1556年に退位し、領土は2分して世襲される。
弟のフェルナント1世には皇帝の位とオーストリアなどのハプスブルク家領土を、
そして息子のスペイン王フェリペ2世にはスペインとルクセンブルクを
含むネーデルラントを与えた。
17世紀前半、30年戦争が欧州でおき、1648年のウェストファリア条約以降も
フランスとスペインの間で戦闘が続いた、そして戦争終結のピレネー条約によって、
スペイン王フェリペ4世はルクセンブルク南部をフランスに割譲することとなる。
それから間もないルイ14世の時代の1684年フランス軍がルクセンブルク城塞を
陥落させ、国全体を支配するようになる。
     ↓
1700年スペイン王カルロス2世の死後相続権をめぐってフランスとオーストリアが
スペイン継承戦争を起こす。その結果カルロス2世の財産は二分され、
ルクセンブルクはベルギーと共にオーストリア・ハプスブルク家の領土となる。
以後1世紀はマリア・テレジアやヨーゼフ2世のもと平穏な時代をすごす。
     ↓
フランス革命とナポレオン戦争時(~1814年)、フランスの支配をうけ、
その後1815年、ウィーン会議の結果、オランダ王ギョーム1世を大公とする
ルクセンブルク大公国となった。フランスの緩衝地としてはオランダの
後ろ盾だけではよわかったので、プロイセンを中核とするドイツ連邦に組み込まれ、
ルクセンブルクシティーの城塞にはプロイセン軍が駐屯することとなる。
     ↓
1830年ベルギーの独立革命の際ベルギーと共に行動し、ベルギーの独立後
ルクセンブルク北半分はベルギーの統治下へおかれた。南側をオランダが
治める形となる。1867年ルクセンブルク大公国をフランスのナポレオン3世が
購入しようとしたことにより、プロイセンとの間に緊張がたかまる。列強は衝突を
さけようと会議をひらく、ロンドン会議でルクセンブルクを非武装の永世中立国と
することが決まり、プロイセン駐屯軍はルクセンブルク市から引き上げた
ルクセンブルクの城塞も解体されることとなる。

   

2013年8月13日火曜日

ルクセンブルク①

歴史編①












国旗:
1972年に制定された。ルクセンブルク家の紋章に由来する。
オランダと似てるがオランダは濃い青色、ルクセンブルクは明るい水色。
また縦横の比率も異なっている。



13世紀以来のルクセンブルク家の紋章。
 銀と青の横縞に爪を立てて怒り狂う赤い獅子。







人口48万人(千葉県の松戸市と同じくらい)

面積2586 km²神奈川県と同じくらい。神奈川の人口は約900万人)

政治体制立憲君主制
     国家元首は世襲制でルクセンブルク大公が内閣とともに行政権を執行する。
     世界唯一の大公国である。

議会-代議院による一院制全60議席任期は5年。直接選挙で選出される。
   また議会にたいして助言をする国務院がある。メンバーは21人で首相の
   推薦の基づき大公が任命する。

行政3つの広域行政区にわけられる。
 ・ディーキルヒ広域行政区
 ・グレーヴェンマハ広域行政区
 ・ルクセンブルク広域行政区
   広域行政区の下には12の県があり、その下には126の基礎自治体がある。

民族と宗教
-ルクセンブルク59%、宗教はカトリックが多数