2012年10月12日金曜日

ベルギー③

歴史編その②















フィリップ2世(豪胆公)からフランドル地方はブルゴーニュ公国の『飛び地』として支配をうける。豪胆公は豊かな産業をもつフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った。そしてたびたびフランスに介入していく。
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しかし1477年ナンシーの戦いにおいてシャルル突進公は敗北し、逆にフランスの介入を受ける。実質的なブルゴーニュ公国の滅亡である。戦死したシャルルの娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家マクシミリアンと結婚。これ以後フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれる。
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この後、マクシミリアンの息子フィリップ・ル・ボーはスペインの王位継承者ジャンヌ・ド・カスティーユと結婚し、彼はネーデルランド一帯とスペイン王の地位も得た。カール5世はネーデルラント17州すべての主権者として専制政治をおこなった。
しかし同家がスペイン系とオーストリア系に分かれるとスペインの支配を受けるようになる。
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16世紀になるとネーデルラント諸都市はスペインに対して反乱を起こす。これが80年戦争(1568~1648年)である。勝利したネーデルラント17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は1648年のヴェスファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立が承認される。
しかし南部諸州はスペインの支配下にとどまった。この南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。
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18世紀になるとスペイン継承戦争(1701~1714年 スペインの王位継承をめぐり欧州諸国間で争った戦争)の後、再びオーストリア領となる。その後ハプスブルク家の支配に対して反乱を起こし1790年にはベルギー合衆国を建国する。しかし短期間で合衆国は滅ぼされ、再びハプスブルク家の支配下に戻る。
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フランス革命戦争(フランス革命政府へのオーストリアの干渉で始まった欧州諸国間の戦争)が始まると、フランスに占領される。その後1797年カンポ・フォルミオ条約で、リエージュ司教領とともにフランスに併合される。
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1815年、ナポレオン戦争終結後、ウィーン議定書によって現在のオランダとともにネーデルラント連合王国として再編される。
     

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