2013年9月28日土曜日

ルクセンブルク⑤

都市編②











ルクセンブルク・シティーの見所

①サントル(旧市街)
 13~14世紀に誕生。
 中央駅からリベルテ通りを進むと深い谷(ペトリュス渓谷)が現れる。
 サ
ントルの入り口となるのが
 アドルフ橋長さ84m谷の深さは50m
 
谷底を流れているのがペトリュス川。このペトリュス川と南から流れてくる
アルゼット川によって三方を取り囲まれたルクセンブルク市は城塞都市として
発展してきた。
 観光名所は中心のギョーム広場に集中している。
 ギョーム広場
市庁舎のあるギョーム広場にある騎馬像は19世紀のルクセンブルク
  ギョーム2世
。1840年に王位についたギョーム2世はルクセン
ブルクの統治に関して国民の願いを真剣にきき、「ルクセンブルクはル
クセンブルク人によって統治されるべき」と宣言して国民に支持された。

 憲法広場
  アドルフ橋わたり、すぐ右。憲法広場に立つのは
  黄金の女神像『ゲレ・フラ(
Gelle Fra)』。
  第一次世界大戦の戦没者慰霊碑で、第2次世界大戦時にナチスによって
  破壊されたその後1985年、2つの戦争の犠牲者のために再建された。
  40mのポールの上に立つ女神は月桂樹の冠を掲げている。

 ノートル・ダム大聖堂
  17世紀に建立されたイエズス会の教会。後期ゴシック様
  内部の祭壇背後のステンドグラスには十字架にかけら
れたキリスト像が
  描かれている。キリスト誕生のジオラマ
のある。
  聖堂脇には
シャルロット大公の像がある。
またここではジャン前大公ジョセフィーヌ・シャルロット(ベルギー王女)
  結婚式を挙げた場所でもある。

 サン・ミシェル教会
  最初の建設は14世紀と、町で最も古い教会。
  ボックと魚市場の間にある。教会には龍を退治する大天使ミカエルの像がある。

大公宮殿
  ルネサンス様式の建物。土台は13世紀に築かれ、500年近く市庁舎 
として使われ、1890年に大公の宮殿となる。現在は主に謁見場所と 
して使われ、議会は向かって右端にある。大公一家は普段は市北東20 
キロのコルマール=ベルク城などに住んでいる。大公がこられていると   
きは国旗が掲げられている。

②グルント
13~14世紀に誕生。谷間に開けた低い土地に民家が密集している。
14世紀皮なめし工など、水を使う職人たちが住み着き、次第に皮なめし業と
 関係のある。靴職人や毛皮加工業者なども住むようになった。
15世紀になると、
 パン屋、鍛冶屋、ビール醸造者などが加わった。
17世紀ルクセンブルクが
 フランス軍に占領されたときにグルントのかなりの部分が破壊されてし
まった。
 現在はレストランや居酒屋や小さなギャラリーが並ぶ地域。

  ボックの砲台
  三方を川に囲まれた断崖絶壁に963年ジークフロイト伯爵は難攻不落の

   ルクセンブルク城をつくった。現在見られる城塞は17世紀末ルイ14世が
支配していたころ、フランス軍によって築かれたものである。
1714年からフランス革命軍に占領される1795年まで
   ルクセンブルクはオーストリアのハ
プスブルク家の手に渡る。
   その間オーストリア軍は26キロにも及ぶ地下壕を建設した。
   地上に
くらべて被害が少なく、現在もそのうち20キロが保存されていて、
   博物館として公開されてい
る。またルイ14世時代にフランス軍が
   おいていった大砲が置かれている。大砲にはブルボン王
家のユリの紋章
   ついている。地下壕は
1200人の守備兵を一度に収容できる規模であった。
   第2次世界大戦中は防空壕として多くの市民を作った。
  
  ・兵舎跡
   17世紀末ルイ14世の軍隊によって建てられた建物で、
   現在は老人ホームとして使われている。
   兵舎に水を供給していた古い井戸が残っている。
  トリアー門

   兵舎の先に中世には砦の役目を持っていた東門がある。ドイツのトリアー
   続いていたことから『トリアー門』と呼ばれている。門には兵士たちが刀をといた跡が残っている。
  水の精の声
   アルゼット川沿いに歩き、川をわたって旧市街にいく途中、川へ降りる階段で
 段を踏むと『メルジーネ』と自動的にテープの流れるところがある。
『メルジーネ』は水の精である。
   (メルジーネ伝説)
     10世紀、ジークフロイト伯爵の時代に下半身は魚で、
     上半身は人間のメルジーネという水
の精がジークフロイトに恋をして、
     人間の姿になって伯爵の前に現れた。伯爵は彼女をかわ
いがり、
     城にすませた。
しかしある日に、水浴びをしているメルジーネの
     下半身が魚であることに驚く。そして姿を
見られたメルジーネは絶望の
     あまり、高い崖からアルゼット川に飛び込み、
     伯爵の前に以後
姿を現すことはなかった。
     しかしメルジーネは伯爵を想い毎晩歌を歌い続けているといわれ
ている。
                           
③キルシュベルクの丘(新市街)
 
 ヨーロッパセンターや銀行の本部
などがある。1960年後半からこの丘に
 次々と斬新な高層ビルが建設された。
 1963年、旧市街と丘を結ぶ橋、シャーロット女大公橋が建設された。
 深いアルゼット渓谷に建てるため頑丈な鉄で建設され、赤く塗られていることから
 『赤い橋と市民に呼ばれている。また「鉄鋼で栄えた国」を象徴している。
 1966年に最初の高層ビルが丘に建てられた。
 欧州連合の定期閣僚会議も年3回、
 ここの会議センターで開かれている。
1990年代に入ると急速に発展し、
 ホテルの建設も行われ、大規模なショッピングセンターやスポーツセンターも
 誕生した。2005年には丘の南に斬新な
フィルハーモニーが完成した。

2013年9月12日木曜日

ルクセンブルク④

都市編①












ルクセンブルクシティー
人口88,586人(都市圏人口は103,973人)
面積51.46 km²
ルクセンブルク大公国の首都である。
標高はおよそ500m。1994年に世界遺産に登録されている。
市は現在サントル(旧市街)ガレ(中央駅地区)グルント(谷地区)
キルシュベルクの丘の4つの地区からなっている。


歴史
ローマ帝国時代、2つのローマ街道がこの地を交差していた。
963年トリアーのセント・マクシミン修道院と交わした交換条約で
アルデンヌ伯ジークフリートがこの地を手に入れ、
アルゼット川に囲まれた岩だらけの崖にボック城を建設。

 ★アルデンヌ伯ジークフリート
  西フランク王国のルイ2世の孫で神聖ローマ皇帝オットー1世の姻戚。

戦略拠点に位置していたため、要塞は強化され、12世紀末までに町は
要塞の西方に拡大していった。
ヨハン盲目王(ヨハン・ルクセンブルク)の時代、新しい要塞も造られた。
     ↓
その息子のカール4世は神聖ローマ皇帝となり、ルクセンブルク領主は伯爵から
公爵へ昇格した。
     ↓
1443年、フィリップ善良公(フィリップ3世)によって征服され、
ブルゴーニュ公爵領ネーデルラントの一部に組み込まれる。
     ↓
この後、スペイン領やハプスブルク君主国領としてハプスブルク家の統治下に入る。
この時期に市のお城は繰り返し強化され、ルクサンブルクの要塞は欧州でも最も
強固で壮麗なものとなった。

フランス革命戦争ではフランス軍に2度占領される。2度目の戦闘ではフランス軍の
包囲を7ヶ月間耐え忍んだ。その難攻不落ぶりから『北のジブラルタル』という愛称で呼ばれるようになる。
しかしオーストリア軍は降伏し、市はフランスに併合される。
     ↓
その後、ナポレオン戦争が終結すると1815年のウィーン会議
ルクセンブルク大公国が誕生するが実態としてはネーデルラント連合王国の
1州として統治される。そしてドイツ連邦に加盟することになり、
プロイセン王国軍が進駐した。
     ↓
フランスとプロイセンの間でルクセンブルク危機がおきると1867年ロンドン条約
ルクセンブルクは永世中立国となり、市のお城は解体されることとなった。
この時城内張り巡らされた地下通路『カズマット(
Casematesの取り壊しには
16年かかった。同時にプロイセン軍の駐屯地も廃止された。
     ↓
オランダ国王ウィレム3世が1890年男子を残さず没すると、元ナッサウ公
あったアドルフがルクセンブルク公となり、完全に独立を果たした。
ルクセンブルク市がその首都となる。
     ↓
第一次世界大戦がはじまると、中立宣言にもかかわらず1914年ドイツ帝国に
占領され、フランスに近いという理由で小モルトケの総司令部が置かれた。
     ↓
1940年、ナチス・ドイツが侵攻。1942年には第3帝国に併合されるも
1944年連合軍に解放される。
     ↓

戦後、ルクセンブルクは中立政策を廃止し、NATOに加盟する。
その後も1952年には欧州石炭鉄鉱共同体の本部となり、現在も欧州議会の
事務局本部、欧州司法裁判所欧州会計監査院欧州投資銀行などがおかれている。
欧州委員会もブリュッセルのほかにルクセンブルク市内でも業務を行っている。

2013年9月4日水曜日

ルクセンブルク③

歴史編②













1890年にはオランダ国王ギョーム3世が男子を残さず亡くなったため、
当時女子が王位を継承することができなかったルクセンブルクでは、オランダ王室の
分家であるドイツ系のナッサウ・ヴァイルブルク家のアドルフ
ルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消した。
     ↓
2度の世界大戦において、ドイツの占領下におかれた。大戦中アドルフ公の孫
シャルロット女大公(1919年~1964年在位)は家名を
ナッサウ・ヴァイブルク家からルクセンブルク家へ改名した。
シャルロット女大公はアメリカに亡命しながら、祖国の独立に尽力した。
そしてロンドンに亡命していたルクセンブルク政府は同じく亡命していたベルギー政府、
オランダ政府と連帯を深め1944年に3国はそれぞれの頭文字をとり、
「ベネルクス」協定を終結するに至る。同じ年アメリカ軍によりルクセンブルクは
ナチスドイツから解放される。
     ↓
1948年ベネルクス間で関税同盟を結成した。これが欧州連合の第一歩となる。
1949年にはNATOに加盟し永世中立国を放棄した。
1952年には欧州石炭鉄鋼共同体の仮本部がルクセンブルクシティーに置かれた。

 ★ルクセンブルクは南部で鉄鉱床が発見され、ドイツの技術と資本で大製鉄国家に
  のしあがる。
  EECの設立の際、ルクセンブルクの取り扱いで議論が交わされたが、
小国とはいえイタリア、オランダの生産量を上回る製鉄国であったため、
他の加盟国と同様に扱われ執行機関に代表を送った。
 ★仮本部設置にあたり、フランスはザールブリュッケンつよく押していたが、
他国も自国の都市をおして譲らなかったため、候補地をだしていないドイツが
仲介役にはいり、小都市のルクセンブルクにおくこととなる。
そして仮本部のまま本部としての機能を高めていく。

1957年には欧州経済共同体、1967年には欧州連合、1999年にはユーロ圏に
原加盟国として参加している。
 
 ★1970年欧州通貨統合を初めて提案したのもルクセンブルクの
元首相ピエール・ヴェルナーである。

1950年代
には鉄鋼業は工業総生産の5割以上をしめていたが、
60年代には鉄鉱構造不況の影響で失業問題が発生した。おなじくして
ルクセンブルク市に金融市場が誕生した。1986年には単一欧州議定書が
ルクセンブルクで調印されるなどこの国が中心都市重要な役割を果たしてきた。
持ち株会社の相次ぐ設立、証券取引所の近代化・合理化で金融市場がますます発展した。
経済
21世紀以降、1人あたりの国内総生産(GDP)が世界1位
1人あたりの国民総所得(GNI)では世界4位だが、購買力平価ベースでは
世界1位。GNIは国民が国内外で稼いだ所得の総和であるから、
単純に世界で所得の多い国民ということができる。

 ★日本は19位

  経済成長率は毎年4~5%で、典型的な福祉国家ではないが、
  失業率は良好に推移し、国内の所得格差が北欧並みに小さい。

  労働力としてポルトガルなどから移民を受けいれたので
  人口の41%は外国人である。