2012年10月27日土曜日

ボリビア④

歴史編②

















3.スペイン征服時代
スペイン国王は植民者やピサロの部下に土地を分割し、その地域の防衛と原住民を教化することを条件に王権を代行して先住民から租税を徴収し、労役に挑発する権限を与えた。この制度はエンコミエンダと呼ばれる。先住民はスペイン人に奴隷として扱われた。
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ボリビアはペルー副王領チャルカスのアウディエンシアの管轄下におかれ、アルト・ペ
ルーUpper Peru」(別名チャルカス「charcas」)と呼称された。
1538年チャルカスの首都としてラプラタ市(現スクレ市)が建設された。
王党派指揮官アロンソ・デ・メンドーサはチャルカスに派遣され、1548年にチュキアポ近郊にヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス(後のラパス)を建設した。
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1545年、原住民ディエゴ・ワルパポトシの山に銀鉱床を発見されると各地から鉱山業者が殺到した。そして人口16万人の町が形成されていった。ポトシは西半球で最大の都市となり、ポトシ銀山は世界でもっとも利益ある鉱山となった。1570年代にはリマからクスコを経てポトシへ至る道路「銀の道」が整備された。しかし高度4000mでの鉱山労働は過酷を極めた。そこで副王トレドはミタと呼ばれる原住民に対する鉱山労働の賦役の制度をつくり労働力を確保した。こうしてポトシに銀はハプスブルク家の重要な収入源となり、また欧州に商業革命を起こした。
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17世紀になると銀の埋蔵量が枯渇し始める。1776年、アルト・ペルーはペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領(現アルゼンチン領)へ編入され、さまざまな改革が行われた。そのことが、各地で反乱を引き起こした。1780~1781年、メスティーソのトゥパック・カタリの反乱は白人支配者を震撼させた。トゥパックはコレヒドールを殺害し、ラパスを包囲するが、最終的には支配者側に鎮圧された。この反乱で2万人以上の原住民が殺害された。
 ★トゥパック・カタリ
   本名はフリアン・アパサ。同時代の原住民反乱のリーダーであった「トゥパック・アマル」と「トマス・カタリ」両者からそれぞれの名前の一部をとって「トゥパック・カタリ」と名乗った。「輝けるヘビ」という意味。首長(カシケ)でもなく、白人の上流階級の人々と交流することも不慣れであった。教育を受けておらず、アイマラ語だけを話した。

19世紀に入ると欧州本国がナポレオン戦争により衰退していく。そんななかボリビア各地で反乱運動が起きた。その最初の独立運動に上げられるのが、1809年クリオーリョであるペドロ・ドミンゴ・ムリーリョがラパスで起こした反乱である。しかしこれはリマの副王に制圧され、ムリーリョは処刑され、後に「ボリビア独立の先駆者」と呼ばれるようになる。
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ベネズエラのクリオーリョ、シモン・ボリヴァルは1811~1813年にベネズエラの独立を果たすが、王党派の巻き返しにあい、その後も独立運動を繰り返す。1821年コロンビア、ベネズエラを陥落させ、1822年副官のアントニオ・ホセ・デ・スクレによってエクアドルの解放が達成された。そしてボリヴァルは三国を合わせたグラン・コロンビア共和国を建国し、その初代大統領となった。そして残ったのがペルーとアルト・ペルーである。
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1824年、アヤクチョの戦いでスクレが王党派に勝利し、ペルーは独立した。そして翌年1825年8月11日アルト・ペルーも独立。その新国家を「ボリビア共和国」と名付けた。アルト・ペルーはラプラタ連合州やペルーと統合することなく、独立の道を選んだ。そしてスクレが終身大統領となる。

2012年10月23日火曜日

ボリビア③

再び南米に戻り、ボリビアを続けて紹介していきます。

歴史編①















1.先史時代(プレインカ)
BC1500年、アンデス山脈の西側クスコを拠点にしてチャビン文化が興る。チャビン文化は周辺に大きな影響を与えた。そのひとつがチチカカ湖南東岸のチリパ文化である。
チリパは前期(BC1500~BC1000)、中期(BC1000~BC800年)後期(BC800~BC250年)の三期に分けられる。
前期では湖岸の動植物の採取、狩猟による生活が営まれていた。中期にはラクダ科動物の飼育や農業が興った。そして後期になると祭事儀礼の祭壇や半地下広場が作られるようになった。そこからはキノアやジャガイモ、土器などは出土している。
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チリパ文化の次に現れたのはティワナク文化(BC200~1150年)である。この文化は五期に分けられる。そのなかでも三期(300~500年)には巨大な祭祀建造物が作られた。四期には温暖な東部や南米の南部へ勢力を拡大させた。それはティワナク遺跡の太陽の門やポンセの石像に見られる文様がペルーのワリ文化などにも見られることからも明らかである。
またティワナクはすばらしい陶器や金の飾り物、彫刻の施された柱や石版を作った。その彫刻のデザインは彼らの指導者、そして神であるヴィラコチャが描かれている。 
 ★ヴィラコチャ
先住民族アイマラ民族の創造神であり最高神。またインカ神話でも最高神。アイマラ民族の神話では原初の時代にチチカカ湖に現れ、天地を創り、多くの民族を粘土で創った。その姿は頭に太陽をのせ、手には稲妻を持ち、雨の意味を持つ涙を目から流す姿で表される。そして最終的には敵対する住民を鎮め、海の彼方に去っていく姿が描かれている。インカの時代太陽神インティを最高神としたが、ヴィラコチャの神格が失われることはなかった。
その後五期(800~1150年)衰退する。この900~1475年の間についてはいまだ研究が進んでおらず、詳しくはわかっていないが、それぞれ異なる文化の民族が小さな文化圏を作り、暮らしていたとされる。

2.インカ帝国
15世紀後半になるとインカ族が興したインカ帝国が勢力を拡大する。もともとインカ帝国はクスコに拠点にしていたが、1440年頃、8代目の王ヴィラコチャ(ティワナクの神とは別人)はティワナクを制圧する。インカ帝国は彼らの宗教を禁止したが、言語や習慣はそのままにした。
またインカ帝国の呼称は征服後のスペイン人がつけたものであり、彼らは自らの国をタワンティンスーユ(四つの州)と呼んでいた。文字通り帝国を4つに分けて支配した。その中でボリビアはコリャスーユと呼ばれ、現在の公用語のケチュア語が普及し高度な都市文明(土木・建築・染織等)がこの時期伝わった。
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コリャスーユはインカ帝国にとって危険な土地であった。チチカカ湖南岸から東岸にくらしていた集団は度々インカに反旗を翻した。そのため討伐され、他の土地に以上させられた。そして代わりに別の信頼できる集団を連れてくるという政策(ミティマエス)がとられた。
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インカ帝国の繁栄は長く続かなかった。コロンブスが新大陸を1492年に発見後、多くの西洋人が訪れるようになる。1526年にはポルトガル人がラプラタ(現在のスクレ)方面からボリビアに進出し、インカ帝国が黄金を貯蔵している事を知り、征服者たちに「エルドラド」の夢を抱かせた。
インカ王ワイナ・カパックが死ぬと、内戦がおき、アタワイパが最後の正統な王となる。
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1532年、ペルー総督フランシスコ・ピサロは混乱に乗じて180人の軍隊をインカ帝国に侵入させ、王アタワイパを捕虜とし、莫大な黄金を手に入れる。その後王を処刑し、傀儡皇帝マンコ・カパックを王座に据えた。1533年ピサロはクスコを陥落させ、インカ帝国は滅亡した。180人でインカ滅亡させた裏には圧倒的な火力をもつスペインに青銅・新石器時代の武装のインカ帝国はなすすべがなかったからである。


2012年10月18日木曜日

ベルギー④

歴史編③


















1830年ネーデルラント国王で新教徒ヴィレム1世の支配に対して、独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。1831年ドイツの連邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。
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1839年オランダはベルギーの独立を承認し、ベルギーが領有していたルクセンブルク大公国とリンブルフをオランダと分割した。そしてベルギーを永世中立国とした。
これは新教国オランダと旧教国ベルギーの同盟により軍事的脅威をなくすものであった。
また同年ベルギー憲法を制定しブルジョワジー男子により二院制国王の行政行為は首相の承認を要すると規定した。これは外からつれてくる新教徒の国王へ対抗するためのものであった。
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1885年第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカのコンゴ自由国を領有する。
  国と称しているが実質はザイール川流域の私有地である。その後コンゴ共和国→コン
 ゴ民主共和国となる。
同国ではレオポルド2世の残忍な統治で、人口は2500万人から1500万に激減したといわれている。やがて国際的な非難を呼び1908年にベルギーの国家的所有となる、ベルギー領コンゴとして1960年まで支配した。
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第一次世界大戦では1914年にドイツ帝国に中立を犯されベルギーは占領されるが、1919年のヴェルサイユ条約でドイツ帝国の植民地のルワンダとブルンジを獲得した。第2次世界大戦では1940年にナチス・ドイツに再び占領される。
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戦後は欧州経済共同体の創設に参加するなど中心的な役割を果たすが、1960年コンゴ民主共和国がベルギーから独立する際、ベルギーの対応の悪さからコンゴ動乱モブツ体制の確立など、コンゴの不安定化に寄与した。
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現在首都のブリュッセルはEU連合の主要な機関が置かれており、欧州連動の「首都」的な役割を帯びている。

2012年10月12日金曜日

ベルギー③

歴史編その②















フィリップ2世(豪胆公)からフランドル地方はブルゴーニュ公国の『飛び地』として支配をうける。豪胆公は豊かな産業をもつフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った。そしてたびたびフランスに介入していく。
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しかし1477年ナンシーの戦いにおいてシャルル突進公は敗北し、逆にフランスの介入を受ける。実質的なブルゴーニュ公国の滅亡である。戦死したシャルルの娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家マクシミリアンと結婚。これ以後フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれる。
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この後、マクシミリアンの息子フィリップ・ル・ボーはスペインの王位継承者ジャンヌ・ド・カスティーユと結婚し、彼はネーデルランド一帯とスペイン王の地位も得た。カール5世はネーデルラント17州すべての主権者として専制政治をおこなった。
しかし同家がスペイン系とオーストリア系に分かれるとスペインの支配を受けるようになる。
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16世紀になるとネーデルラント諸都市はスペインに対して反乱を起こす。これが80年戦争(1568~1648年)である。勝利したネーデルラント17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は1648年のヴェスファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立が承認される。
しかし南部諸州はスペインの支配下にとどまった。この南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。
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18世紀になるとスペイン継承戦争(1701~1714年 スペインの王位継承をめぐり欧州諸国間で争った戦争)の後、再びオーストリア領となる。その後ハプスブルク家の支配に対して反乱を起こし1790年にはベルギー合衆国を建国する。しかし短期間で合衆国は滅ぼされ、再びハプスブルク家の支配下に戻る。
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フランス革命戦争(フランス革命政府へのオーストリアの干渉で始まった欧州諸国間の戦争)が始まると、フランスに占領される。その後1797年カンポ・フォルミオ条約で、リエージュ司教領とともにフランスに併合される。
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1815年、ナポレオン戦争終結後、ウィーン議定書によって現在のオランダとともにネーデルラント連合王国として再編される。
     

2012年10月10日水曜日

ベルギー②

引き続きベルギーについて。本日より歴史編
















歴史編その①
新石器時代、中央ヨーロッパより移住してきた民族が定住を始め、牧畜技術や農耕技術をもたらした、こうした民族と文化の移入はBC1000年頃まで続く。また社会的組織の構築や金、銅、錫の生産などの文化移入がみられる。そしてエジプト産のビーズなども発見されており、地中海世界の広い範囲で行われていた交易にも参加していたことが考えられる。
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BC6世紀、ケルト人がライン川を渡って到来し移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた。
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紀元前後になると、ローマ人との接触が始まる。カエサルがBC57年に著した『ガリア戦記第2巻』にこの地に居住する民族についてはじめて言及された。
カエサルはゲルマン人と共通性を持つ同地のケルト人を総称してベルガエ族と呼んだ。
 ★ベルガエとはケルト語で『勇士』を意味する言葉。
ベルガエ族は多数の部族にわかれてベルギー部族にわかれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地はBC51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州になった。
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ゲルマニアの征服への過程で遠征拠点の都市としてトンヘレン、トゥルネー、アルロンといった殖民都市が築かれた。アウグストゥスの時代にはライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれた。そしてドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとして今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた。
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3世紀、フランク族がライン川を超えてローマ帝国に侵入をはじめ、多数の都市を占領していく、こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していく。
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弱体化していくローマ帝国のユリアヌス帝は358年、サリ族トクサンドリア定着を認めた。
 ★トクサンドリアは現在のオランダとベルギーにまたがる地名。ブラバンドのこと

481年、次第に勢力を増すサリ族の王に即位したクロヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国する。(フランク王国)
そしてクロヴィス1世はその後、北海からピレネー山脈にいたる領土を手に入れた。しかしクロヴィス1世死後、内部対立で領土は分割相続され、衰退していく。
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7世紀中頃、アウストラシアの宮宰、ピピン2世が頭角をあらわし、687年、テルトリー会戦でネウストリアに勝利するとフランク王国における支配権を確立した。そして732年、カール・マルテルの時代にはトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利。
751年にはピピン3世がクーデターを起こし、メロヴィング朝にかわり、カロリング朝を興す。
754年、ランゴバルド王国を討伐してラヴェンナを教皇に寄進することにより、宗教的後ろ盾を得た。
 ★宮宰はゲルマン諸国家および諸侯の宮廷職の首位で、もともとは王家や諸侯の私的な家事の管理者。
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カール大帝の時代(768年~814年)、フランク王国は現在のフランス、ドイツ、イタリアに相当する地域を統一。東ローマ帝国に匹敵する大国となる。800年にはサン・ピエトロ大聖堂にてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与される。
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カール大帝死後、843年ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国、西フランク王国、ロタリンギアに分けられた。
さらに870年メルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収される。この結果ベルギー地方はスヘルデ川を境に分裂することとなる
 ★スヘルデ川
  全長350キロ。源流はフランスのエーヌ県。北流してベルギー、オランダを通り北  
  海へ流入。
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9世紀、ノルマン人の襲来により、各地で地主や司教たちを中心として、フランドル伯領、ブラバンド伯領、リエージュ伯領、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルグ伯領、ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した。なかでもフランドル伯領はリネンの交易でヨーロッパの工場としての地位を築いた。
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10世紀、城や砦のまわりに居住地(ブルグス)ができる。そこで一部の特権を与えられた住民層はブルゲンセスとよばれ、彼らは一定条件を満たすもの同士コミューンと呼ばれる共同体をつくった。そして領主に対して、金銭の支払いや奉仕を交換条件として、税の免除や自治権を獲得していった。こうして領主と一部の特権階級者によって都市は支配されるようになっていった。
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ブラバンド公国はケルンと海港都市ブルージュを結ぶ道路上あり、封建公国のなかでも主要な役割を果たした。特にブラバンド公国のジャン1世の時代1288年ウォーリンゲンの戦いでケルンの皇子司教だったヴェスターブルクのジークフリートの領土拡張の試みを打ち破った。
しかし世襲貴族と平民の間では争いが各都市で表面化してきた。1302年貧しいフランデレンのコミューン人民とナミューンの盟友はフランス封建時代でもっとも有名な一族を含む騎士たちを圧倒した。この『黄金の拍車の戦い』の勝利で、リエージュやブリュッセルでは世襲貴族参事会員の権力を減らし、市評議会にも職人の代表の参加を認めるようになった。そして個人の自由と個人の住居の不可侵が保証され、そのほか皇子が約束を遵守しない場合、皇子に対する反乱の権利が肯定された。
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1337年フランドル伯領の諸都市はイングランド王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こす、一時的に通商の特権を獲得するなど成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃をうけ、ブルージュが征服される。そしてフランドル伯死後、ブルゴーニュ公国に組み入れられる。
     


2012年10月9日火曜日

南仏①

週末シャガール展にいったので、フランス-南仏について記載します。

南仏①
コートダジュールは日本語では『紺碧海岸』、英語では『フレンチリヴィエラ』と
呼ばれています。
行政的にはヴァール県、アルプ=マリティーム県、モナコ領にあたります。
海岸線は560マイル(約900キロ)ある。


(コートダジュールの紋章)









そして最初の近代的なリゾート地の一つで、その歴史は18世紀にイギリスの上流階級の冬季リゾートとして始まった。18世紀の半ばに鉄道網が発達すると、イギリス人、ロシア人等の保養地となった。その頃訪れた人には、ヴィクトリア女王、皇太子時代のエドワ
ード7世等がいます。
20世紀に半ばには芸術家たちが頻繁に訪れるようになり、その中にはピカソマティスサマセット・モーム等がいる。他には裕福なアメリカ人やヨーロッパの人たちが訪れた。
第2次大戦後、多くの著名人たちの観光地や会議や各種イベントが開かれる場所となり、エルトン・ジョンやブリジット・バルドー達が別荘を持つようになった。
公式にコートダジュールには163カ国の国籍をもつ人々が住み、その数は83,962人といわれていますが、実際はその数字をはるかに上回る。
コートダジュールの最大の町はニースで人口は347,060人
またコートダジュールはヨットとクルーズの中心地でもあり、毎年世界の50%の大型ヨットを迎え入れている。そして90%の大型ヨットが人生のうち一度はこの地域の海岸線を訪れていると言われている。年間300日が晴れていて、18のゴルフコース14のスキーリゾートがあり、3000のレストランがあります。

名前の由来
コートダジュールの名前は1887年12月に発行された本『コートダジュール』で作家のステファン・リエジャールが名付けたと言われている。
リエジャールはコートドール(Cote-d’Or)のディジョン出身で、金の(Or)の代わりに地中海の青(Azur)をつけて作ったと言われている
英語のフレンチリヴィエラの方はイタリアの国境から始まるイタリアンリヴィエラからとった名前と言われています。19世紀初めにイギリス人はフレンチリヴィエラと呼んだのが始まりです。もともとはモナコとイタリアの国境をさしていた。

2012年10月5日金曜日

ベルギー①

今日、ベルギー料理を食べましたので、前回から話は飛びますが、ベルギーの
お話です。
















正式名称-ベルギー王国
人口-約1065万人
面積-30,528km²(世界136位。四国の1.5倍
独立-1830年
政治体制-立憲君主制国家
     1977年首都ブリュッセル北部フランダース南部ワロンと3つの行政 
     府に分割され、1993年の憲法より、国家形成は連邦制となった。
 3つの政府
★フランダース政府-西フランダース地方、東フランダース地方、アントワープ州、 
          フラミッシュ・ブラバント州、リンブルク州
   ★ワロン地方政府 -エノー州、ブラバン・ワロン州、ナミュール州、
             リエージュ州、リュクサンブール州
   ★ブリュッセル首都圏地域政府
言語-フランダース地方はオランダ語、ワロン地方はフランス語、首都ブリュッセルは2
   言語併用地域ドイツ国境付近はドイツ語
宗教-キリスト教(カトリック75%