2013年2月26日火曜日

ボリビア⑮

ポトシ①










面積:118km²
人口:164,481人
標高:4090m

人が住む都市としては世界最高地のひとつ。セロ・リコCerre Rico 豊かな山)の
ふもとに位置する。そもそも銀の発掘のためにできた町、最盛期は20万の人口
抱えた。植民地本国のマドリッドよりも人口が増えた。アメリカ州でもっとも大きな、
そして裕福な町となった。(西半球でもっとも大きな町ともいわれる)
現在でも『Valer un Potosi(ポトシのように豊かに)』という比喩が使われる。

現地にはインディヘナでケチュア語を話す人々が多い、スペイン語を話す人々も
増えてきている。
1987年セロ・リコ銀山含め、他の構造物と共にポトシは世界遺産に登録された。

歴史:
1544年、インディヘナのディエゴ・ワルパはいなくなったリャマを探していて、
ポトシ(potojsi ケチュア語で『雷』や『爆発』)の山のふもとで火をおこすと
地面が溶け出し、液体が流れ出てきた。そしてその噂を聞いたスペイン人は即座に
行動を起こした。
 ★ワルパは銀をスペイン人譲ったのには理由が....
  インカには山に関する伝説がある。インカ王ワイナ・カパックは
  『ポトシの丘は掘ってはいけない、鉱物はそのままにしておけ、
  それは他人のためにあるものである』と、どこからともなく聞こえる声に
  指示された。おそらくワルパはこの言い伝えを思い出したとも言われている。

スペインは1545年4月1日には、セロ・リコの麓にカール5世の命により
集落を建設。そして大々的な発掘が始まった。またあらゆるところから一攫千金を
狙い多くの鉱山業者がこの地にあつまり、いつしか町ができた。1561年には、
スペイン王フェリペ2世により、町の守護神にサン・アグスティンが指名され、
新しい紋章盾も付与された。
                          
1572年、副王トレドの時代に採掘量を上げるためにミタの義務を原住民に課した。
 ★ミタ
  18歳以上の原住民男子は12時間シフトの採掘を強制され、
  約4ヶ月間衣食住、そして仕事すべて鉱山の中で行わなければならない。
多くの鉱山労働者は爆発などの事故のほかにケイ肺症で亡くなった。
スペイン人は原住民の他にアフリカから黒人の奴隷も連れてきて、鉱山で働かした。
そのアフリカ系民族の子孫は今でもユンガス地方で暮らしている。

また銀の精製方法がワイラス法から、水銀アマルガム法に代わる。
 →銀鉱石を水力で粉砕し水銀と混ぜる、それを原住民に素足で踏んで混ぜさせ、
  その後熱することによって水銀を飛ばす方法。熱した際に毒性の水蒸気があがる。

こういった条件のため、原住民やアフリカ系の奴隷の約800万人が犠牲になったと
いわれている。
     
1672年、町に造幣局が建設され、銀のコインが鋳造された。このころ人口が
約20万人に増え、世界で最大の町のひとつとなる。その人口を支えるため、
水の貯水湖や教会が建てられた。銀は1583年から1783年の間に
約45000トン採掘されたといわれている。その当時の言葉に、『新大陸から
スペインまで銀の橋を作っても、まだその上を渡ってスペインに送るほどの銀が
採掘された。』といわれている。採掘された銀は艦隊によりスペインに運ばれたが、
ときに暴風や海賊によって船がスペインまで辿り着かないこともあった。
     
しかし4世紀続いた銀の採掘も19世紀の半ばになると銀の価格が暴落し、
ポトシの町も衰退していく。その後近年錫が発見される、一時回復するが現在の
ボリビアの主要輸出鉱物である亜鉛と鉛が取って代わった。
それでもセロ・リコでは今も少しの銀と錫の採掘が行われている。
現在は鉱山労働組合によって運営されている。現在の採掘量は抗夫が食べていける位の
量である。それでもラッキーストライクを夢みて今でも抗夫たちは彫り続けている。
こういったセロ・リコを訪れるツアーがポトシの町の旅行者から出ている。

ポトシの名は…
メキシコのサン・ルイス・ポトシ、アメリカの鉛鉱山の町ウィスコンシン州ポトシ、銀鉱山の町ネバダ州ポトシはボリビアのポトシにその名を由来する。

2013年2月17日日曜日

ボリビア⑭

スクレ③










見所:
①自由の家(Casa de la Libertad

スクレの中央広場に面して建つ『自由の家』は1825年8月6日に
ボリビアの独立宣言が署名された場所。内部は当時のまま残されている
もともとこの建物は1700年にイエズス会により建築されたもので、
サンフランシスコ・ハビエル大学の建物として使われていました。
独立後は、この建物は1898年までは国会として利用されており、
その後、行政府はラパスに移転し、この家はその後ボリビア共和国誕生の
歴史を展示する博物館に改装された。

建物の柱は花崗岩で作られ、中庭を取り囲む回廊があり、玄関には大きな
セドロの大木から切り出した木材が使われる。
憲法宣言書は花崗岩の台座の上に乗っている。また木製の天井や聖歌隊席も
一見の価値あり。

②織物博物館(Museo de Arte Indigena
タブラコ(スクレからバスで2時間)の織物の文化について展示。
その他の地方の展示もあり。チュキサカ県北部からポトシ県にかけての
地域はヤンバラ文化が栄え、ハルカ織りやタラブコ織りが生まれた。
この織布の作業は女性だけでなく、男性も行うが、時代と共に伝統が
失われてきたのをNGOが支援を始め、博物館をもてるくらいまでになった。
                    
③カテドラル
建設されたのは16世紀で、ルネサンス様式と後期バロック様式を混ぜた作り。
鐘楼は町のランドマークとなっている。鐘楼は3層になっており、各層の四隅は
キリスト教の聖人が町を見守っている。
1616~1625年、グアダルーペの聖母礼拝堂がその脇に建設された。
鐘楼の時計は1765年にロンドンで購入されたもの。
 
④カテドラル博物館とグアダルーペの聖母礼拝堂
カテドラルに隣接するボリビアで一番の聖遺物のコレクションをもつ博物館。
博物館は4つの部分からなっており、訪れる順番に鍵を開けてくれる。
入り口にまずあるのは植民地時代の宗教画、次に聖人の遺物や金や銀の聖杯
そしてハイライトがグアダルーペの聖母礼拝堂(1625年完成)の中にある。
それは町の聖人である聖女グアダルーペの絵画である。

1601年にフライ・ディエゴ・デ・オカーニャFray Diego de Ocana)に
よって元々描かれた。その後、裕福な教区民から寄付されたダイヤモンド、
アメジスト、真珠、ルビー、エメラルドがちりばめられている金と銀のコートを
かけられた。
その価値は数百万ドルで、アメリカでもっとも豪華な聖母といわれている

2013年2月9日土曜日

ボリビア⑬

スクレ②











歴史:
スペイン人がこの地に来る前、チャルカスはチュキサカ
谷の先住民の中心地であり、また宗教、政治、軍隊の指導者たちの
居住地として栄えていた。
     ↓
スペイン人が到来した後、南ペルーから現在のアルゼンチンのリオデラプラタまでは
チャルカスと知られるようになった。
1530年代、インカ帝国を滅亡させたピサロは兄弟であるゴンサーロ
この地に送り、先住民の鉱山活動を調査させた。ピサロはアルティプラーノに
関心を持っておらず、アンデス山脈の東のハイランドに集中して建設をすすめた。
その結果1538年、スペイン人はチャルカスの新しい都を完成させた。
それが現在のスクレで、Ciudad de la Plata de la Nueva Toledp
(新トレドの銀の街の意味)と名づけられた。
     ↓
当初町はペルーより支配されていたが、スペイン国王フェリペⅡ世
1559年にアウディエンシア(司法・行政・立法をつかさどる最高司法機関の
大審問院)をおき、東部領域を支配した。
     ↓
17世紀になると、町に大司教座がおかれ、1622年には
サンフランシスコ・ハビエル大学、1681年にはアカデミア・キャロリーナ法律学校
などが建設された。
     ↓
1776年には現在のブエノスアイレスに副王領におかれ、チャルカスは
その管理下に入る。そしてそのころ町の名前もラプラタからチュキサカへ変わった。
(ラプラタという名前が増えたため)
     ↓
大学や学校ができたことで、新しい考えや革命的な考えが生まれるようになり、
それが1809年5月25日チュキサカの反乱はアメリカ州の独立運動の
起爆剤となる。
     ↓
その後シモン・ボリバル率いる軍隊によって南アメリカは開放されていき、
ペルー独立後、1824年8月6日と12月9日のフニンの戦いとアヤクチョの戦いの
勝利で完全にスペインから独立した。そしてブエノスアイレスの管理下に入るか
どうかの議論がなされた。
1825年2月9日アントニオ・ホセ・デ・スクレはブエノスアイレスの
管理下に入ることを拒絶しこの国自身でこの国を管理すべきだと主張し、
完全な独立を果たす。ボリバルはスクレの案に反対していたが、
リマに置かれた国会でもブエノスアイレスからの分離が可決され。8月6日
チュキサカの自由の家で独立宣言がなされた。
そして独立の指導者ボリバルにちなんで、国名をボリビア共和国、初代大統領に
スクレが就任し、町の名前も最終的にスクレと改名された。

2013年2月3日日曜日

ボリビア⑫

スクレ①










人口:21万5800人
標高:2750m
スクレは国の中心といえる。それは地理的なことだけでなく、
独立宣言がなされた町である。1826年から1890年までは名実ともに首都
あったが、現在ほとんど政府関連省庁はラパスに移ったが
憲法上の首都は今でもこのスクレである。現在は最高裁判所があるだけである。

町自体は16世紀のスペイン植民地時代に建設されたので、今でもコロニアル様式
残っている。白く美しい町が多いため白の街と呼ばれることもある。
ボリビアで最も美しい街といわれている。美しい白壁の建物の内部には中庭があり、
そこにもコロニアル様式が残されている。政府はこの街並みの美しさを保つために厳しい
制限を課していて勝手に壁の色を黒く塗り替えることなどはできない。
1991年には、世界遺産に登録された。
スクレは周りを低い山で囲まれているため、温暖で快適な気候。