2012年11月20日火曜日

ボリビア⑦

歴史編⑤















7.アクレ戦争とチャコ戦争
自由党が政権を握ってすぐ、ブラジルとの間にアクレ戦争がおきる。
 ★アクレ戦争(Acre War1899~1903年) 
1885年ガソリン自動車が発明されて以来、自動車のタイヤ生産に必要なゴムの需要が急激に増加した。当時まだ天然ゴムしかなく、その原生林はボリビア、ペルー、ブラジルの国境地帯にあり、独立以来国境線が不確かであったため、ブラジルとボリビア両国で東西に国境線が引かれた。
     ↓
  そしてボリビア側はゴム業者から税を取り立て、密輸を厳しく取り締まった。それを快く思わないスペイン人ルイス・ガルベス率いるゴム業者はボリビアからの分離独立を宣言、この分離運動はボリビア軍によって制圧される。その後、ボリビアは米国企業「ボリビア・シンディケート」社にアクレ地方の管理開発権を委譲した。
     ↓
  米国の南米の直接介入を恐れたブラジルは抗議する。そして1902年、ブラジル人  
  ゴム業者プラシド・カストロが第2次分離運動を起こす、今回はブラジル政府の援護
  も受けていた。全面的な戦争になることを恐れたボリビア側は外交的な解決を求め、
  1903年11月ペトロポリス条約が終結され、200万ポンドの補償金鉄道敷
  設権と引き換えに、約19万km²(日本の約半分)に及ぶアクレ地方をブラジルに割
  譲した。

自由党の政権は1920年ごろまで続き、インフラ整備や都市の近代化を図りつつも保守党が固めてきた先住民への支配体制は維持された。1929年、世界恐慌により錫の輸出が低迷し、ボリビアは失業率が増加する。そんななかサラマンカ大統領は国民の関心をそらすため、またリトラル県を失って以来切望していた海への出口を大西洋に求めてチャコ戦争を起こす。

 ★チャコ戦争(Chaco War 1932~1935年)
  1932年、錫の輸出が落ち込み、未開発であったグランチャコの石油開発を目論見、パラグアイに戦争をしかけた。1935年まで続いたこの戦争で約8万人が犠牲になった。1935年、アメリカの仲介で、ブエノスアイレス講和条約が締結され、戦争は終結する。そしてボリビアは24万km²という広大な土地を失う。

8.ボリビア革命
チャコ戦争での敗北は白人による支配体制への嫌悪感を住民の中に生んだ。そして混血層の軍人や知識人のなかに変革を目指すチャコ世代が形成された。その中でも鉱山労働者と関係を結び錫財閥と対立関係を明らかにしたのがパス・エステンソロゲバラ・アルセらによって結成された民族革命運動Movimiento Nacinalista Revolucionario 略してMNR)である。
1943年クーデターで政権を握ったビリャロエル政権へ入閣を果たす。パスは経済相となる。ビリャロエルは暗殺されるが、労働者と農民の間の関係を広げ、ポピュリスト運動の基盤を作り上げた。
     ↓
1951年、地下で活動を続けていたパス・エステンソロらMNRは選挙で勝利を収める。しかし保守政権はこれを認めず、軍へ政権を譲った。そして1952年、シレス・スワレ率いる革命軍が蜂起し、ラパスでの市街戦の末、政権を獲得した。そして亡命中のパスが大統領となる。
パスは大統領になるとすぐに、
 ・錫財閥の解体
 ・鉱山を国有化し鉱業公社を設立
 ・普通選挙の導入
 ・無償教育の普及
 ・農地改革を行いアシエンダを解体。

先住民に選挙権が与えられ、アシエンダは耕作するインディオ個人に農地が分配された。そしてインディオという言葉は禁止され、カンペシーノ(農民)と改められた。
これら一連の改革をボリビア革命と呼ぶ。メキシコ革命に次ぐラテンアメリカ第2の社会革命である。

しかしアメリカやIMFの支援を受けたにもかかわらず、国民の生活水準は上がらず、一人あたりの国民所得は1960年610ドルだったが、35年後も780ドルにとどまった。
     ↓
MNRの政権は12年間いろいろな大統領のもと続くが、次第に鉱業公社COMIBOL)は労働者勢力を地盤にもつ中央労働本部とともに知識人と中心とし、政府に要求を突きつける強力な存在となっていった。これらの抗議を抑えるため、第2次パス政権はアメリカの支援のもと軍を再建する。
アメリカは冷戦の最中で、ボリビアの共産主義化をおさえるため、「進歩のための同盟」のもと支援を行った。ボリビアは一人当たりの額でアメリカの最大の援助受け取り国となった。


2012年11月11日日曜日

ボリビア⑥

歴史編④
















6.政党政治の時代
太平洋戦争終了後、政治家たちは国家のあり方を考えるようになる。チリと停戦を求める保守党と戦争継続を求める自由党が誕生する。
はじめに主導権を握ったのは保守党で、就任したアルセ大統領は史上初太平洋岸のアウトファガスタ市から主要鉱山をつなぎラパスに至る横断鉄道建設に着手した。
しかし1870年以降米国とドイツが銀本位制を金本位制に切り替えるとボリビアはほかの有力輸出品を開発する必要が生じた。
     ↓
欧州での工業化の進展で、の需要が増加する。そして錫の輸出が急激に発展し、1913年には輸出の70%を占めるようになる。
(銀は1891年に60%を占めていたが、1913年には4%に落ち込んでいる。)
     ↓
保守党は錫鉱山の独占に失敗し、その隙に新興資本家が独占に成功する。その中でも有名な3財閥がパティーニョアラマヨホッホチルドである。
新興の錫財閥は国家への影響力を強めるために自由党に歩み寄りラパスに拠点を置き、職能グループとも結束を固めた、ここに南部のスクレ、ポトシの銀鉱山部を拠点とする保守党と対峙する。
     ↓
1899年、錫財閥と結束した自由党は先住民と結束し、保守党政権の転覆を図った。この闘争は「連邦革命」と呼ばれる。
先住民が自由党に協力しのは、保守党政権メルガレホ大統領時代、先住民の共有地の多くが接取され農地へと再編された。メルガレホ失脚後も1874年法が制定され、共有地の永大所有が禁止された。共有地返還を求める先住民で、ラパス県シカシカ地方のアイマラ人カシケ(共同体の指導者)ウィリュカは先住民の権利を回復することを条件に自由党に協力した。

先住民協力のもと保守党の駆逐することに成功した自由党は、今度は先住民の急進化を恐れ、協約を一方的に破棄し、弾圧を始める。こうして連邦革命は「白人」対「先住民」という形をとり終結した。
     ↓
政権を握った自由党はラパスに首都機能を移し自由貿易体制をとる。

2012年11月3日土曜日

ボリビア⑤

歴史編③
















4.独立後
終身大統領になったスクレも3年後に保守的なクリオーリョの反発を買い、国外に脱出することとなった。そして1829年、アルト・ペルー生まれのアンドレス・デ・サンタ・クルスが大統領に就任すると国土と経済の安定化を目指した。特に力を入れたのが国内の綿衣産業の育成である。そのため、外国からの綿製品輸入の一時停止、貿易港の制限、関税の値上げといった政策をとった。
     ↓
1835年、ペルーの親サンタ・クルス派を救済するという名目でペルーに介入し、1836年にペルー・ボリビア連合国を樹立した。
しかし軍事バランスが崩れるのを恐れたチリはアルゼンチンと共同して同年12月に連合に対して宣戦布告する。壊滅的な打撃をうけたサンタ・クルスは欧州に亡命し、連合は1839年に瓦解した。
     ↓
その後、ホセ・バリビアン将軍やホセ・ミゲル・デ・ベラスコ政権等国内安定に尽力したおかげで、経済も好転していく。しかしこの後、ボリビアは独立後170年で180人の大統領が就任することになる。

5.太平洋戦争
当時ボリビアの領土は太平洋まで達していた。チリとの国境は砂漠地帯で人が住んでおらず、国境も明確でなかった。そんな19世紀半ば、このリトラル県グアノ海鳥の死骸や糞の体積で肥料となる)、硝石の鉱脈が発見される。チリはこの地をボリビア領と認めたものの開発は両国共同で行うことを主張。
     ↓
ボリビア領であるが、アントファガスタ市の人口は90%がチリ人であった。さらに1870年代に銀鉱も発見されると、ボリビア政府はこの地域の税率を引き上げた。これに反発したチリ人に本国も軍隊を派兵し、ここに太平洋戦争(war of Pacific 1879~1884年)が始まる。
     ↓
戦いはチリが圧倒的に優位のうちに終わり、1884年4月4日バルパライソ条約が結ばれ、アタカマ地方は完全にチリに譲渡された。そしてボリビアは完全に内陸国となった。チリは代わりにチリはラパスから太平洋までの鉄道を建設した。内陸国のボリビアが3月23日を『海の日』に制定しているのは、ボリビア人が今でもこのときの戦争での領土の消失を恨んでいるからである。そして今でも取り戻そうと考えている。