2012年10月10日水曜日

ベルギー②

引き続きベルギーについて。本日より歴史編
















歴史編その①
新石器時代、中央ヨーロッパより移住してきた民族が定住を始め、牧畜技術や農耕技術をもたらした、こうした民族と文化の移入はBC1000年頃まで続く。また社会的組織の構築や金、銅、錫の生産などの文化移入がみられる。そしてエジプト産のビーズなども発見されており、地中海世界の広い範囲で行われていた交易にも参加していたことが考えられる。
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BC6世紀、ケルト人がライン川を渡って到来し移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた。
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紀元前後になると、ローマ人との接触が始まる。カエサルがBC57年に著した『ガリア戦記第2巻』にこの地に居住する民族についてはじめて言及された。
カエサルはゲルマン人と共通性を持つ同地のケルト人を総称してベルガエ族と呼んだ。
 ★ベルガエとはケルト語で『勇士』を意味する言葉。
ベルガエ族は多数の部族にわかれてベルギー部族にわかれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地はBC51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州になった。
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ゲルマニアの征服への過程で遠征拠点の都市としてトンヘレン、トゥルネー、アルロンといった殖民都市が築かれた。アウグストゥスの時代にはライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれた。そしてドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとして今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた。
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3世紀、フランク族がライン川を超えてローマ帝国に侵入をはじめ、多数の都市を占領していく、こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していく。
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弱体化していくローマ帝国のユリアヌス帝は358年、サリ族トクサンドリア定着を認めた。
 ★トクサンドリアは現在のオランダとベルギーにまたがる地名。ブラバンドのこと

481年、次第に勢力を増すサリ族の王に即位したクロヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国する。(フランク王国)
そしてクロヴィス1世はその後、北海からピレネー山脈にいたる領土を手に入れた。しかしクロヴィス1世死後、内部対立で領土は分割相続され、衰退していく。
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7世紀中頃、アウストラシアの宮宰、ピピン2世が頭角をあらわし、687年、テルトリー会戦でネウストリアに勝利するとフランク王国における支配権を確立した。そして732年、カール・マルテルの時代にはトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利。
751年にはピピン3世がクーデターを起こし、メロヴィング朝にかわり、カロリング朝を興す。
754年、ランゴバルド王国を討伐してラヴェンナを教皇に寄進することにより、宗教的後ろ盾を得た。
 ★宮宰はゲルマン諸国家および諸侯の宮廷職の首位で、もともとは王家や諸侯の私的な家事の管理者。
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カール大帝の時代(768年~814年)、フランク王国は現在のフランス、ドイツ、イタリアに相当する地域を統一。東ローマ帝国に匹敵する大国となる。800年にはサン・ピエトロ大聖堂にてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与される。
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カール大帝死後、843年ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国、西フランク王国、ロタリンギアに分けられた。
さらに870年メルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収される。この結果ベルギー地方はスヘルデ川を境に分裂することとなる
 ★スヘルデ川
  全長350キロ。源流はフランスのエーヌ県。北流してベルギー、オランダを通り北  
  海へ流入。
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9世紀、ノルマン人の襲来により、各地で地主や司教たちを中心として、フランドル伯領、ブラバンド伯領、リエージュ伯領、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルグ伯領、ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した。なかでもフランドル伯領はリネンの交易でヨーロッパの工場としての地位を築いた。
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10世紀、城や砦のまわりに居住地(ブルグス)ができる。そこで一部の特権を与えられた住民層はブルゲンセスとよばれ、彼らは一定条件を満たすもの同士コミューンと呼ばれる共同体をつくった。そして領主に対して、金銭の支払いや奉仕を交換条件として、税の免除や自治権を獲得していった。こうして領主と一部の特権階級者によって都市は支配されるようになっていった。
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ブラバンド公国はケルンと海港都市ブルージュを結ぶ道路上あり、封建公国のなかでも主要な役割を果たした。特にブラバンド公国のジャン1世の時代1288年ウォーリンゲンの戦いでケルンの皇子司教だったヴェスターブルクのジークフリートの領土拡張の試みを打ち破った。
しかし世襲貴族と平民の間では争いが各都市で表面化してきた。1302年貧しいフランデレンのコミューン人民とナミューンの盟友はフランス封建時代でもっとも有名な一族を含む騎士たちを圧倒した。この『黄金の拍車の戦い』の勝利で、リエージュやブリュッセルでは世襲貴族参事会員の権力を減らし、市評議会にも職人の代表の参加を認めるようになった。そして個人の自由と個人の住居の不可侵が保証され、そのほか皇子が約束を遵守しない場合、皇子に対する反乱の権利が肯定された。
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1337年フランドル伯領の諸都市はイングランド王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こす、一時的に通商の特権を獲得するなど成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃をうけ、ブルージュが征服される。そしてフランドル伯死後、ブルゴーニュ公国に組み入れられる。
     


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