2014年1月22日水曜日

ウガンダ④

都市編①











1.エンテベ

人口:62971人
ワキソ県
首都カンパラより35キロ離れている。
エンテベはガンダ語で「座」を意味している。
ガンダ族のマンバ氏族の首長(ムグラ)の裁判所がおかれていた。

歴史:
1893年イギリスの初代弁務官ジェラルド・ポータルにより、イギリス植民地当局の
政庁が置かれ、1962年に独立するまでイギリス領ウガンダの首都とされていた。
独立後はカンパラへ遷都された。
1976年アテネ国際空港を離陸したパリ行きのエールフランス139便は
離陸後4人のテロリストにハイジャックされた。犯人はパレスチナ解放人民戦線の
分派の2名と西ドイツのテロリスト2名であった。犯人の指示に従い、
機はリビアで給油し、妊婦と身体障害者を解放し、その後ウガンダの
エンテベ国際空港に強制着陸した。イスラエル人とユダヤ人以外を解放した。

当時大統領だったアミン(反イスラエル)は犯人側とイスラエルの交渉役となる。
イスラエルのラビン首相はパレスチナテロリスト釈放の要求を検討すると同時に
軍事的手段によって人質を解放する手段も検討。
そして「オペレーション・サンダーボール」が実施され、イスラエル国軍に
よって人質は解放された。
この事件での被害はイスラエル側(乗客3名、イスラエル軍中佐1名)、
ウガンダ側(テロリスト6名、兵士20~45名)


2013年11月28日木曜日

ウガンダ③












政治:
1995年に発行された憲法により、国家元首は大統領で、国民の直接選挙で選出され、
任期は5年。大統領は首相や閣僚の任命権などをもつ。
政党は国民抵抗運動(NRM)が無党制を導入したため、他にウガンダ人民会議、
ウガンダ愛国運動、保守党などの政党があるが政治活動は禁止されていた。
議会へは個人資格(NRMの支援を受けたもの)しか当選しない仕組みになっていた。
      ↓
2000年6月に複数政党制の導入をめぐる国民投票が行われたが野党のボイコットで
一党制が支持された。
      ↓
2005年7月新たに国民投票が行われ、複数政党制が支持され、
現在では登録された政党が公的に活動、選挙に候補者を送ることができるようになった。

行政区画:
2010年7月以降ウガンダには4つの地方(中央地域、東部地域、北部地域、
西部地域)があり、その下に111の県が置かれている。イギリス植民地時代には村、
教区、副郡、郡、県が置かれていた。また現在の地域と同じ名前で州が
おかれていたりもした。

経済:
1.農業
   アフリカでも有数のコーヒーの生産国、2002年には輸出額の27%を
   占めていた。その他輸出品としては衣料、動物の皮、バニラ、野菜、果物、
   切花、魚が成長しており、綿、茶、タバコも重要な産物。
2.工業
   セメントなどが再生中である。プラスチック、石鹸、ビールなど飲料は
   国内生産されている。
3.エネルギー
   1980年代までは国内エネルギー需要の95%は木炭と木材で
   まかなわれていた。
   現在は2000年の白ナイル川を利用したナルバーレ発電所によって
   東アフリカでも主要な発電国となった。

   石油の国内需要のほとんどはケニアからの輸入にたよっている。
   しかし2006年にウガンダで石油が発見され、石油会社からインド洋への
   原油パイプライン案が出されたが、大統領は反対でカンパラに製油所を建設し、
   近隣諸国への輸出を考えている。


2013年11月6日水曜日

ウガンダ②

歴史編①













歴史:
 16世紀、ブニョロ、ブガンダ、アンコーレ、ルワンダ、ブルンディなどの
 大湖地方の諸王国が成立。
      ↓
 17世紀中頃、ナルバーレ(ヴィクトリア湖)北西岸のブニョロ王国最盛期。
      ↓
 19世紀中頃、ブガンダ王国がザンジバルとの交易で繁栄。その後カトリック、
 プロテスタント、ムスリムの間で勢力競争がある。それはイギリスと
 ドイツ、フランスの権益争いが背景にあった。
      ↓
 1880年代から第一次大戦前の1912年までに欧州の帝国主義列強により、
 アフリカ諸地域の支配権争奪が行われた。

 その始まりは15世紀、ポルトガル、スペインの進出からはじまる。
 当初欧州人がもとめたのは奴隷と若干の物品のみだったので沿岸部の支配のみで
 あった。19世紀産業革命が進むと、奴隷貿易が禁止され、アフリカは
 工業のための原料の供給地と、さらに工業製品の市場として囲い込み植民地と
 する方が経済的に見合うと判断し、列強は前面的な植民地支配を目指していく。
 
 その中でも1815年のウィーン議定書でアフリカ南端を手に入れ、
 1875年エジプトをフランスから手に入れたイギリスの大陸縦断政策と
 モロッコなどマグレブから東は紅海まで植民地の拡大を目指すフランスの
 大陸横断政策は1898年、スーダンのファショダ事件のように度々ぶつかった。
 イギリスはヘルゴランド=ザンジバル条約により、ドイツよりケニアとウガンダを
 手に入れる。
      ↓
 最終的には1912年イタリアがリビアを獲得したことで、エチオピアとリビエラを
 除くアフリカ全土が欧州のわずか7カ国によって分割支配された。
      ↓
 第2次大戦後、独立の気運が高まり1962年に英連邦王国の一員として独立し、
 1963年に共和制へ移行。
  ★ウガンダは現在も共和制であるが、国内にはトロ王国、ブニョロ、ブガンダ、
   ブソガの伝統的な地方王国が存在している。それらは1967年に
   廃止されたが、1990年代に復活した。各王国の国王は「文化的指導者」と
   位置づけられ、政治的な力は持たない。
      ↓
 1966年首相のウガンダ人民会議のミルトン・オボテが大統領のムテサ2世を
 排除して終身大統領に就任。社会主義路線を掲げる。
      ↓
 1971年1月軍司令官イディ・アミンがクーデターで政権を掌握。
 独裁政治を敷いた。
 アミンの恐怖政治で30万人以上の国民が虐殺された。そして1978年に
 タンザニアに侵攻するが、逆にタンザニア軍に首都のカンパラまで攻め込まれる。
      ↓
 1979年反体制派のウガンダ民族解放戦線に攻撃されてアミンは失脚、
 サウジアラビアに亡命。その後オボテが復帰するが、1985年、1986年と
 クーデターが相次ぎムセベニが権力を獲得。ゲリラ闘争を行っていた国民抵抗軍が
 正規軍となる。第7代大統領のムセベニは現在も大統領である。

2013年10月30日水曜日

ウガンダ①

ウガンダ基本情報

黒はアフリカ人
黄色は夜明けの太陽
赤は人民の同胞愛

中央の鳥は「カンムリヅル」、
特定の部族や王のシンボルになったことがなり中立性を
表す。



独立:1962年10月9日
人口:3271万人
面積:24万 km²(世界37位)日本の本州と同じくらい。
共和制国家:現大統領ヨウェリ・カグタ・ムセヴェニ大統領
議会:一院制(271議席)

民族:
国民の3分の2がバヌツー系の民族。
その主力はカンパラを中心に住む農耕民族のガンダ族で人
口の10%。
残りをソガ族、トロ族、ニョロ族が占める。
残りの3分の1は警官や軍人に多いナイル系のアチョリ族、マサイ族に似た遊牧の
習慣を持つナイロハーマナイト系のカラモジョン族、テソ族、ルワンダから来たツチ族。
その他インドや欧州人の子孫。

宗教:
カトリック60%、伝統宗教30%、イスラム教10%

主要産業:農業(コーヒー)、綿花、紅茶、砂糖、トウモロコシ、観光業
主要輸出物:コーヒー、魚、金、紅茶
主要輸出国:スペイン、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア
主要輸入物:自動車、機械部品、石油製品、石灰、セメント
主要輸入国:ケニア、イギリス、インド、日本、ドイツ

国名:ウガンダはブガンダ王国のスワヒリ語名称にちなむ。
 ★ブガンダ王国-ガンダ族の国を意味する。元はブニョロ=キタラ帝国の
  従属国の一つであったが19世紀末ごろムワンガ2世の時代にはイギリスの助けや
  セメイ・カクングルの活躍などにより、ブニョロに代わってウガンダのバントゥー系の
  宗主的立場となる。


2013年10月22日火曜日

ルクセンブルク⑧

モーゼルワイン編











■モーゼル川について
 総延長544m
 フランス ヴォージュ山脈に水源を持ち、ナンシー、メッスなどを北へ流れる。
  ルクセンブルクで北東に転じ、ドイツ国境を流れたのち、最終的にはライン川に
合流する。

 (周辺産業)
  フランス国内においては地下資源の豊富なロレーヌ地方を流れるため沿岸には
  工業地帯が発展する。ドイツ国内では欧州有数のワインの生産地としてしられる。

・ドイツワインの特徴
ドイツのワインは圧倒的に白ワインが多い。
 ⇒それは厳しい気象条件のため、黒葡萄は十分に色がつかず、
    数少ない赤ワインも色が薄い。
しかし緯度が高いため、
    夏期に日照時間を長く取ることによって凝縮性が高く、
独特な酸味と
    果実性に富んだワインが造られる。
ドイツワインの酸味は長命性、
    殺菌性に貢献しているといわれ、
    ド
イツでは風邪の治療にワインを飲む人もいる。
    ブドウ畑は南向きの斜面に位置していることが多い。
     ⇒それは直射日光だけでなく川からの反射光も取り入れられる、
      また川から発生する霧で寒さ
から畑を守れるからである。

■モーゼルワイン
  モーゼル川沿岸やザール川の沿岸の地域が生産地。
  2007年までは「モーゼル=ザール=ルーヴァー」と呼ばれていた。
  リースリング主体のしっかりしたワイン。
   ※リースリング
    白ワイン用のぶどうの品種。ドイツでは1996年以降は
    この品種が栽培高1位。世界では5万ヘクタールの栽培面積を持つ。
    冷領地での栽培が望ましい。
 
 ★
ルクセンブルクにおけるモーゼルワイン
   ルクセンブルクのワインはフランスのアルザスワインとの共通点を
   よく指摘される。「アルザス
をさらに辛口にした」と形容される。
   モーゼル川の流域、南北約42キロにわたる地域、ぶどう畑は
   海抜150m~250mに位置し、幅300~400mの畑がつづく。
   地域的には南北2つに分けられる。
    
   南部⇒量産地域、ゆるやかなスロープ、開けた土地。
      やわらかでバランスのいい、フルボディワインを生産。
   北部⇒石灰岩を多量に含む。河岸の侵食のため、ぶどう畑は幅の狭い急斜面に
位置する。優雅なワインを生産。
  ・年間生産量
    ⇒130,000~180,000ヘクトリットル
      ★1ヘクトリットル=100リットル
       内輸出50,000~90,000ヘクトリットル

  ・ルクセンブルクワインはすべて辛口
    ⇒平均残糖量8~10g/ℓ、ドイツワインは半甘口または甘口が多い。
   
  ・ルクセンブルクの葡萄の品種
    ⇒ブルゴーニュ産の品種であるオーセロワ、ピノ・ブラン、ピノ・グリ等が
     全体の3割。あとはリースリング、ピノ・ノワール、
     ゲヴルツトラミネール、リヴァネール、エルブリングなどドイツでは
     こういった品種の栽培量はきわめて少ない。
 
  ・粘土質と白亜質を多く含むモーゼルの土壌が優雅さと繊細なバランスを生み出す。
  
  ・ワイン法
    ⇒1932年施行され品質保障され、ラベルに表記される。
   
    ※表記されるには
    ・政府の監督をうけること。
    ・ルクセンブルクモーゼル地域で生産されたワインであること。
    ・他国のワインとブレンドされてないこと。
    ・ルクセンブルクのワイン法ならび、EU規則の品質基準を
     すべて満たしていること。

  ・ワインの等級
       ①Marque National – Appellation Controlee
       ②Vin Classe
       ③Premier Cru
       ④Grand Premier Cru(グラン・プルミエ・クリュ)←1番良い。
   ★ワインセラーの1つWellensteinについて
    グレーヴェンマハ広域行政区に位置する。  
   ウェランステンは大手ワインセラー『Domaines de Vinsmosells社』の
   ブドウ畑で、農業組合の形式をとり、合計で860ヘクタールのブドウ畑を
   もっています。

   ※860ha=8.6 km²。東京ドーム183個、甲子園球場223個
     
   国内の生産の3分の2の『Domaines de Vinsmosells社』は
   モーゼル川から離れた丘陵地にあり、平坦な土地が多い。650軒の農家があり、
   1966年に設立した農業協同組合による経営で、
   ルクセンブルクワインの60%以上を生産している。

  ※その他ワインセラー
     Greiveldange(グリヴェルダンジュ)、Grevenmacher(グレーヴェンマハ)
     Remerschen(ルメーシン)、Stadbredimus(スタットブレディミュ)
   そしてスパークリングワインではWormeldange(ヴォルメルダンジュ)。

 ★生産されたワインは輸出国としてはベルギーが1番多く、その後ドイツ、
  フランス、オランダと続く。
※年間の消費量
    ⇒ワインの年間消費量1位はルクセンブルク(55.8ℓ)
     2位フランス(55.4 ℓ)3位はイタリアで51.1ℓ。
     ルクセンブルクのワイン消費量は日本の27.9倍(日本は26位)

     ルクセンブルクの消費の多さは近隣の国とくらべて税率15%と低いため、
     周辺国からもワインを購入しに来る。そのため上記の数字には
     ルクセンブルク国民だけでなく、外国人も含まれている。


2013年10月16日水曜日

ルクセンブルク⑦

都市編④
















ヴィアンデン
人口-1500人
年間の観光は20万人観光客が訪れる。
町は1308年と早い段階に都市権を得ている。
ウール川沿いに開けた小さな町。
(見所)
・マルクト広場
 広場には1469年に建てられた白い館、町役場がある。ルネサンス様式。
 細い塔の窓にルクセンブルクの旗、大公の旗、ヴィアンデンの旗がひらめいている。
 そのほか広場にはヴィアンデンの女流芸術家が作った銅像がある。
 『ヴィアンデンの三人』というタ
イトルの銅像は塗装工、道化師、楽師を
 あらわしている。
 
 少し上ると人形博物館があり、個人コレクションで2000体の人形と
 300の玩具が飾られて
いる。
 
・ヴィアンデン城
中世の時代には24の見張り塔と5つの市門があった。原型をとどめていないが、
 登っていく途中に左右にある民家の背後に市壁の一部が残って
いる。
 ルクセンブルク随一の名城でどの方向からみても美しい城である。
 そしてルクセンブルク大公一家が外国からの賓客をもてなす際によく利用されている。
(お城の歴史)
 ローマ時代にすでにこの地に城が建てられていた。
     ↓
 10世紀にカロリング朝の地方伯が岩棚に楕円形の城を築いた。
     ↓
 1090年、ヴェルトルフ・フォン・ヴィアンデン伯爵がこの城の所有者となった。
 以来ヴィアンデン家の城であった。
     ↓
 1417年ヴィアンデン伯爵家の最後のエリザベートが跡継ぎを残さずになくなった
 ため、財産は夫のエンゲルベルト・フォン・ナッサウのものとなる。
 以後城はルクセンブルク大公の祖ナッサウ家のものとなる。
     ↓
 17世紀ナッサウ家のフィリップが改装したルネサンス様式の城が今日見られる
 城の基となってい
る。18世紀の後半から城に住むものがいなくなり、荒廃していく。
    ↓
19世紀になってオランダ国王であり、ルクセンブルク大公ギョーム1世が城の
 補修工事を行った。
1891年にアドルフ大公に譲渡された。以降ルクセンブルク家の城として使われ、
 1977年から
国の管理下におかれ、現在は博物館となっている。

(内部)
 西側の門をくぐると城を一周するつくりになっており、第二の門、第三の門がある。
 それを抜けると城の中庭にでる。城内に入るには第四番目の門をくぐる。
     ↓
 城内に入るとまず『武器の間』があり、ここには鎧兜など中世の武具がみられる。
     ↓
 その奥には城の修復の際に見つかった出土品が展示されている。ローマ時代に
 建てられた最初の城の
ものと思われる陶器の破片などもある。
    ↓
東端の珍しい十角形の塔は内部が礼拝堂で白壁と柱だけの質素な造りが美しい。
通常の礼拝のほかに出陣の前と無事に帰還できたときの感謝の祈りをささげていた。
    ↓
 北側のホールは『騎士の間』。幅9.60m、長さ30.30mという
 大きな部屋で何の飾りものない大広間。戦が始まると周辺の城に住んでいた
 騎士たちが武装して『騎士の間』に集まってきたので、できるだけ多くの騎士が
 はいれるように無駄な調度品はおいていない。
    ↓
 その隣には台所、石のかまどがあり、煙を逃す大きな穴が煙突のように作られている。
 上階には近世のヴィアンデン城、『食事の間』『寝室』『バンケットルーム』
 『宴会の間』などがある。城の家系図を壁一面に描いた部屋もある。

・ヴィクトル・ユーゴーとヴィアンデン
 
 川にかかるウール橋は18世紀前半木製の橋であった。その後石橋に変わった。
 袂にはユーゴーの胸像と反対側にユーゴーの家がある。
 ユーゴーはヴィアンデンを気に入って、初めて旅行者として1862年に訪れた。
 そして翌年から3
年続けて訪れている。1871年には夏の2ヶ月をヴィアンデンで
 すごしている。その時住んだ家がこの家である。ユーゴーは2階の
 2部屋を借りていた。今は全部が博物館となっていて、ユーゴーの書いた詩、
 スケッチ画、手紙や『レ・ミゼラブル』のポスターなどが展示されている。

 この家にいたとき、午前中は詩作にふけったり、手紙を書いたりして、午後は散歩に
 出ていた。ユーゴーはルクセンブルク中を旅し、旅先で詩を書書いたりした。
 その数詩50編、スケッチ画70作。

・ウール橋の像
ウール橋にあるユーゴーの胸像は実際のユーゴーの厳しい表情を表したロダンの
 作品のコピー(オリジナルはフランスにある。)
もう一つの石像はボヘミアの聖人ヨハネス・ネポムクである。
 チェコの聖 
人がここにある理由は
   →ルクセンブルク家出身のボヘミア王ヴァーツラフ4世にネポムクは
  使えてきた祭司であったから。ネポムクは王の命令に従わなかったから
  モルダウ川に投げ落とされる。死体が浮かび上がったときに川面に不思議な
  5つ星が光っていたといわれている。そのためチェコのネポムクの像には必ず
  5つの星があるが、ヴィアンデンの聖人には星はないが、この町の守護聖人である。










2013年10月8日火曜日

ルクセンブルク⑥

都市編③












エシュテルナッハ(Echternach)
人口-5200人
面積-20.49 km²
ルクセンブルク最古の町、『ルクセンブルクの小スイス』と呼ばれています。

歴史
アイルランド出身のベネディクト派修道士ウィリブロードは698年トリアーに
滞在中、尼僧院の修道院長より、近くのエピテルナクス村の修道院と教会を与えられた。
ウィリボードはここにカトリック大教会(バジリカ)を建設し修道院を拡張した。
その周辺に定住して町は発展した。
     ↓
950年、アルデンヌ伯爵ジークフロイトがエシュテルナッハ修道院の権利代行者と
なり、963年にはトリアーの修道院からアルゼット川に囲まれた土地を譲り受け、
この地を拠点に後のルクセンブルク国を築き上げていった。
     ↓
現在のエシュテルナッハはルクセンブルク市で暮らす人々にとって人気のある保養地で、
ザウアー川のキャンプ地に滞在して、ハイキングや川遊びを楽しんでいる。
聖霊降臨祭(イースターの後の第七日曜日からはじまる)の火曜日の朝には
聖ウィリボードにちなむ「ダンシング・プロセッション(ダンス行進)」が行われる。
また5月と6月には国際音楽祭が開かれる。

見所
・聖ウィリブロード大教会
 もともとは聖ウィリブロードが706年に創建。しかし1017年には焼失し 
てしまう。その後11世紀に再建されたものがオリジナルとされる。
第二次世界大戦でドイツ軍に破壊されるが、今は修復され、11世紀の姿を
 見
ることができる。

 アーチ型の窓を2つ並べた四角い塔が2つありと、その上に乗ったピラミッド型の
 屋根をもつ典型的なロマネスク様式建築である。
 内部は両脇に廊下のある3層式会堂。ホールを支える四角い柱の間に円柱を
 配置した珍しい構造の支柱がある、このような柱を『エシュテルナッハ式』と
 呼んでいる。
 祭壇の右脇に立つ石像は聖ウィリブロードである。

・エシュテルナッハ修道院
 修道院は10~11世紀に最盛期を迎える。
 現在のってものは1737年に再建されたもので端正なバロック様式。
 1797年修道士たちは追放され、修道院の有名な図書館とその所蔵物は競売に
 かけられた。
 図書館には聖ウィリブロードが手がけた装飾文字の写本が残されていた。
 現在オリジナルはパリの国立図書館などにある。
 現在修道院は博物館となっている。エシュテルナッハの歴史や修道院の宝物が
 展示されている。

 修道院の北側には付属の庭だったオランジェリーがある。
 中央には18世紀のロココ様式の館がたっています。