ヴィアンデン
人口-1500人
人口-1500人
年間の観光は20万人観光客が訪れる。
町は1308年と早い段階に都市権を得ている。
ウール川沿いに開けた小さな町。
(見所)
・マルクト広場
広場には1469年に建てられた白い館、町役場がある。ルネサンス様式。
細い塔の窓にルクセンブルクの旗、大公の旗、ヴィアンデンの旗がひらめいている。
そのほか広場にはヴィアンデンの女流芸術家が作った銅像がある。
『ヴィアンデンの三人』というタイトルの銅像は塗装工、道化師、楽師を
あらわしている。
『ヴィアンデンの三人』というタイトルの銅像は塗装工、道化師、楽師を
あらわしている。
少し上ると人形博物館があり、個人コレクションで2000体の人形と
300の玩具が飾られている。
300の玩具が飾られている。
・ヴィアンデン城
中世の時代には24の見張り塔と5つの市門があった。原型をとどめていないが、
登っていく途中に左右にある民家の背後に市壁の一部が残っている。
ルクセンブルク随一の名城でどの方向からみても美しい城である。
登っていく途中に左右にある民家の背後に市壁の一部が残っている。
ルクセンブルク随一の名城でどの方向からみても美しい城である。
そしてルクセンブルク大公一家が外国からの賓客をもてなす際によく利用されている。
(お城の歴史)
ローマ時代にすでにこの地に城が建てられていた。
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10世紀にカロリング朝の地方伯が岩棚に楕円形の城を築いた。
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1090年、ヴェルトルフ・フォン・ヴィアンデン伯爵がこの城の所有者となった。
以来ヴィアンデン家の城であった。
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1417年ヴィアンデン伯爵家の最後のエリザベートが跡継ぎを残さずになくなった
ため、財産は夫のエンゲルベルト・フォン・ナッサウのものとなる。
以後城はルクセンブルク大公の祖ナッサウ家のものとなる。
ため、財産は夫のエンゲルベルト・フォン・ナッサウのものとなる。
以後城はルクセンブルク大公の祖ナッサウ家のものとなる。
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17世紀ナッサウ家のフィリップが改装したルネサンス様式の城が今日見られる
城の基となっている。18世紀の後半から城に住むものがいなくなり、荒廃していく。
城の基となっている。18世紀の後半から城に住むものがいなくなり、荒廃していく。
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19世紀になってオランダ国王であり、ルクセンブルク大公ギョーム1世が城の
補修工事を行った。
補修工事を行った。
1891年にアドルフ大公に譲渡された。以降ルクセンブルク家の城として使われ、
1977年から国の管理下におかれ、現在は博物館となっている。
1977年から国の管理下におかれ、現在は博物館となっている。
(内部)
西側の門をくぐると城を一周するつくりになっており、第二の門、第三の門がある。
それを抜けると城の中庭にでる。城内に入るには第四番目の門をくぐる。
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城内に入るとまず『武器の間』があり、ここには鎧兜など中世の武具がみられる。
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その奥には城の修復の際に見つかった出土品が展示されている。ローマ時代に
建てられた最初の城のものと思われる陶器の破片などもある。
建てられた最初の城のものと思われる陶器の破片などもある。
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東端の珍しい十角形の塔は内部が礼拝堂で白壁と柱だけの質素な造りが美しい。
通常の礼拝のほかに出陣の前と無事に帰還できたときの感謝の祈りをささげていた。
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北側のホールは『騎士の間』。幅9.60m、長さ30.30mという
大きな部屋で何の飾りものない大広間。戦が始まると周辺の城に住んでいた
騎士たちが武装して『騎士の間』に集まってきたので、できるだけ多くの騎士が
はいれるように無駄な調度品はおいていない。
大きな部屋で何の飾りものない大広間。戦が始まると周辺の城に住んでいた
騎士たちが武装して『騎士の間』に集まってきたので、できるだけ多くの騎士が
はいれるように無駄な調度品はおいていない。
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その隣には台所、石のかまどがあり、煙を逃す大きな穴が煙突のように作られている。
上階には近世のヴィアンデン城、『食事の間』『寝室』『バンケットルーム』
『宴会の間』などがある。城の家系図を壁一面に描いた部屋もある。
・ヴィクトル・ユーゴーとヴィアンデン
川にかかるウール橋は18世紀前半木製の橋であった。その後石橋に変わった。
袂にはユーゴーの胸像と反対側にユーゴーの家がある。
ユーゴーはヴィアンデンを気に入って、初めて旅行者として1862年に訪れた。
そして翌年から3年続けて訪れている。1871年には夏の2ヶ月をヴィアンデンで
そして翌年から3年続けて訪れている。1871年には夏の2ヶ月をヴィアンデンで
すごしている。その時住んだ家がこの家である。ユーゴーは2階の
2部屋を借りていた。今は全部が博物館となっていて、ユーゴーの書いた詩、
スケッチ画、手紙や『レ・ミゼラブル』のポスターなどが展示されている。
この家にいたとき、午前中は詩作にふけったり、手紙を書いたりして、午後は散歩に
出ていた。ユーゴーはルクセンブルク中を旅し、旅先で詩を書書いたりした。
その数詩50編、スケッチ画70作。
・ウール橋の像
ウール橋にあるユーゴーの胸像は実際のユーゴーの厳しい表情を表したロダンの
作品のコピー(オリジナルはフランスにある。)
作品のコピー(オリジナルはフランスにある。)
もう一つの石像はボヘミアの聖人ヨハネス・ネポムクである。
チェコの聖 人がここにある理由は
チェコの聖 人がここにある理由は
→ルクセンブルク家出身のボヘミア王ヴァーツラフ4世にネポムクは
使えてきた祭司であったから。ネポムクは王の命令に従わなかったから
モルダウ川に投げ落とされる。死体が浮かび上がったときに川面に不思議な
5つ星が光っていたといわれている。そのためチェコのネポムクの像には必ず
5つの星があるが、ヴィアンデンの聖人には星はないが、この町の守護聖人である。
使えてきた祭司であったから。ネポムクは王の命令に従わなかったから
モルダウ川に投げ落とされる。死体が浮かび上がったときに川面に不思議な
5つ星が光っていたといわれている。そのためチェコのネポムクの像には必ず
5つの星があるが、ヴィアンデンの聖人には星はないが、この町の守護聖人である。
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