2012年12月30日日曜日

ボリビア⑨

ラパス①















面積:255km²
人口:約87万人
標高:3640(すり鉢状の町の為、この標高は中心がある一番底の標高)

ラパスとは英語で『Our Lady of Peace』(平和の女神)の意味。そしてラパスはボリビアの首都である。憲法上の首都は現在もスクレであるが、最高裁判所以外はすべてラパスにある。
人口においてはボリビア第2位。(一番はサンタクルスの160万人)
世界でもっとも高いところにある首都機能をもった都市
(最も高い首都はエクアドルのキト)

地理:アルティプラーノに位置し、町からは年中雪を頂いたイリマニ山(標高6438
   m)を見ることができる。

歴史:
最初に町が建設されたのは1548年10月20日、もともと先住民が暮らしていた
Laja)にスペイン人の征服者アロンゾ・デ・メンドーサによってペルーにおける戦
争の終結を記念して建設された。
最初の名前は『Nuestra Senora de La Paz(Our Lady of Peace)』。
その後、アイマラ人の鉱山労働者のコミュニティーであった現在の場所に町は移された。
     ↓
征服者たちは先住民に西欧の宗教や生活スタイルを押しつけた、征服者の多くは男性であ
ったため多くの混血(メスティーソ)も生まれた。
     ↓
ポトシで銀山が発見されてからは、アルティプラーノの厳しい気候にあるにも関わらず、
ラパスはポトシ~リマの交易路として栄える。その後ラパスを通る鉄道も建設される。
     ↓
その名『平和の女神』という町の名前にかかわらず、町は数々の暴力に見舞われる。スペ
イン人の支配に対して1781年トゥパック・カタリがリーダーのアイマラ人のグル
ープが町を6カ月間包囲し、彼らは教会や政府関連の建物を破壊した。そしてその30年
後先住民が2カ月間ラパスを包囲する。
     ↓
1809年、独立の気運が高まると王党派に対する反乱が各地で起きると、7月16日、
ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョが反乱をおこす。ムリーリョは革命の父と呼ばれ、
彼の反乱は失敗に終わるが、この後消えることのないボリビアの独立の灯りをともしたと
言われている。ムリーリョはスペイン広場で絞首刑にされた。後に彼の名声をたたえ、
広場はムリーリョ広場と名付けられた。
     ↓
1825年アヤクチョの戦いで革命軍がスペイン軍に勝利し、ボリビアは独立する。
そして町の名前La Paz de Ayacucho(『アヤクチョの平和』)と改訂された。
1899年、連邦革命後、主な首都機能はラパスに移った。独立後ボリビアは180
人大統領が代わってと言われており、大統領になることは寿命を縮めることと言われるほ
どである。またPalacio QuemadoBurned Palace(燃やされた宮殿)と言われるくらい何度も放
火にあっている。また1946年には大統グアルベルト・ビジャロエルはムリーリョ広場で
首をつられた。

2012年12月1日土曜日

ボリビア⑧

歴史編⑥















9.軍政の時代
1964年パスが3度目の大統領に就任すると革命運動は分裂し、自ら再建した軍により政権を追われる。そして政権は軍にわたり1982年までボリビアは軍政下に入る。
       
そして軍は右派と左派に別れ、抗争を続けた。保守派のバリエントスは左派・社会主義者への締め付けを強化。
1966年11月4日、キューバの革命家チェ・ゲバラは南米大陸運動の拠点を求めてボリビアに来るが、革命軍は農民層の支持は得られず、1967年アメリカ軍の支援(CIA)を受けたボリビア政府軍に捉えられ、10月9日銃殺された。
     ↓
バリエントスが飛行機事故で死亡した後、軍の左派に実権が移る。労組、農民組合、学生などの利益集団の共同当時がよみがえり、左翼革命運動(MIRが誕生させ、反米化の動きを強めた。
1971年、左派ウーゴ・バンセルが政権を握ると労働運動を抑え、外国投資を誘致する政策に転換、公務員を10万増やし、中間層の支持を取り付けた。天然ガスの輸出の伸びもあり、一時的に経済ブームをもたらしたが、その後、財政赤字と三倍の累積債務を生み出した。
     ↓
バンセルが政権を追われたあと3回の大統領選挙5回のクーデターがあり、経済は悪化する。とくに81年に政権を掌握したガルシア・メサ将軍は反対派の弾圧と麻薬マフィアとの関係から国際的に孤立し、経済悪化を深めた。
     ↓
1982年に就任したシレス・スアソは財政緊縮策など行えず、国際支援も受けられず、反対に物価統制や為替の固定相場制等の政策はハイパーインフレを起こし、84年から85年の1年間で26000%の価格上昇があった。与党は分裂し、統治能力を失ったシレスは大統領の座を辞した。

 10.民主化
1985年、総選挙が行われ、その結果74歳のパス・エステンソロが約20年ぶりに政権に復帰した。
パスは国家再建のため大統領令第21060号新経済政策(NPEを発表した。
 ・価格、為替、貿易の自由化
 ・国営公社の合理化
 ・補助金の削減
急激な改革で経済は安定するが、鉱山公社の労働者は削減され、民間企業でも貿易の自由化で失業者が増加。労組は鉱山からラパスへ行進で対抗するが、政府は軍を導入し指導者150人を逮捕する。
ボリビアの経済の安定と民主化は未曾有の危機を背景に政党間の協定による協調体制による。これを「協定による民主主義」と呼んだ。
またパスは東部アマゾンへの移住を促進し、日本からの援助のもと道路の建設、雨林の開発を行った。
     ↓
1989年選挙での敗戦後、1993年の選挙では、アメリカ育ちの新自由主義者で「ゴニ」と呼ばれたゴンサロ・サンチェス・デ・ロサーダはトゥパック・カタリ革命運動の指導者ビクトル・ウーゴ・カルデナスを副大統領候補に指名し当選する。
彼の政策は「資本化法」で、増資による民営化、電力・通信・航空・鉄道・石油公社などに外資を導入し産業を近代化させた。
その他、政府所有の資本(51%)を国民の年金へ、教育改革では教育の質の改革と二言語教育を行った。地方自治体における先住民の政治参加を促した。
1994年の憲法改正で、メスティーソ中心の国民国家形成からはじめて「多民族多文化」を前提とする国民国家の建設を目指すようになった。
各種の改革や年金制度は国際的には注目されたが、国民の支持にはつながらなかった。
     ↓
1997年選挙では元軍人のウーゴ・バンセルANDのリーダー)に政権が移ってから国民の不満は爆発する。ガス料金の値上げ、コチャバンバの水の民営化を機に騒乱に発展。違法コカ栽培の根絶に反発した農民反乱を巻き込み、幹線が封鎖される。ラパスでも交通網が停止するなど各地で抗議運動が起きる。
     ↓
バンセルは2001年に病気で辞任。副大統領が大統領に昇格するが、政権は統治能力を欠いていた。
2002年の選挙ではサンチェスが再選し、2期目をつとめるが統治能力はなく、各政党との連立するも「協定による民主主義」は破綻した。2003年10月12日ガス戦争が勃発し、エルアルトで警官隊と住民が衝突し、16名が死亡した。サンチェスは辞任しアメリカへ帰った。後をついだメサ大統領も辞任に追い込まれた。
     ↓
2005年の選挙で、エボ・モラレス初の先住民の大統領となる。モラレスは先住民、農民、住民組織、労組など社会運動を基礎とする社会主義運動(MAS)を基盤する。そして白人系知識人で左派のガルシア・リナレスを副大統領に据えた。モラレスはオルロの貧しい村で生まれ、リャマを追いかけた幼少時代を過ごした。当選後もネクタイをせず統治するスタイルをとっている。
2006年にはボリビアの天然ガスの国有化コカ根絶政策の見直しを行った。
また憲法の改正を行い、先住民により強いパワーを与え、そして土地所有の制限をし、貧しい先住民の農家に土地を持たせた。
2009年に、モラレスは再選を果たし、新しい5年の任期を始めた。

2012年11月20日火曜日

ボリビア⑦

歴史編⑤















7.アクレ戦争とチャコ戦争
自由党が政権を握ってすぐ、ブラジルとの間にアクレ戦争がおきる。
 ★アクレ戦争(Acre War1899~1903年) 
1885年ガソリン自動車が発明されて以来、自動車のタイヤ生産に必要なゴムの需要が急激に増加した。当時まだ天然ゴムしかなく、その原生林はボリビア、ペルー、ブラジルの国境地帯にあり、独立以来国境線が不確かであったため、ブラジルとボリビア両国で東西に国境線が引かれた。
     ↓
  そしてボリビア側はゴム業者から税を取り立て、密輸を厳しく取り締まった。それを快く思わないスペイン人ルイス・ガルベス率いるゴム業者はボリビアからの分離独立を宣言、この分離運動はボリビア軍によって制圧される。その後、ボリビアは米国企業「ボリビア・シンディケート」社にアクレ地方の管理開発権を委譲した。
     ↓
  米国の南米の直接介入を恐れたブラジルは抗議する。そして1902年、ブラジル人  
  ゴム業者プラシド・カストロが第2次分離運動を起こす、今回はブラジル政府の援護
  も受けていた。全面的な戦争になることを恐れたボリビア側は外交的な解決を求め、
  1903年11月ペトロポリス条約が終結され、200万ポンドの補償金鉄道敷
  設権と引き換えに、約19万km²(日本の約半分)に及ぶアクレ地方をブラジルに割
  譲した。

自由党の政権は1920年ごろまで続き、インフラ整備や都市の近代化を図りつつも保守党が固めてきた先住民への支配体制は維持された。1929年、世界恐慌により錫の輸出が低迷し、ボリビアは失業率が増加する。そんななかサラマンカ大統領は国民の関心をそらすため、またリトラル県を失って以来切望していた海への出口を大西洋に求めてチャコ戦争を起こす。

 ★チャコ戦争(Chaco War 1932~1935年)
  1932年、錫の輸出が落ち込み、未開発であったグランチャコの石油開発を目論見、パラグアイに戦争をしかけた。1935年まで続いたこの戦争で約8万人が犠牲になった。1935年、アメリカの仲介で、ブエノスアイレス講和条約が締結され、戦争は終結する。そしてボリビアは24万km²という広大な土地を失う。

8.ボリビア革命
チャコ戦争での敗北は白人による支配体制への嫌悪感を住民の中に生んだ。そして混血層の軍人や知識人のなかに変革を目指すチャコ世代が形成された。その中でも鉱山労働者と関係を結び錫財閥と対立関係を明らかにしたのがパス・エステンソロゲバラ・アルセらによって結成された民族革命運動Movimiento Nacinalista Revolucionario 略してMNR)である。
1943年クーデターで政権を握ったビリャロエル政権へ入閣を果たす。パスは経済相となる。ビリャロエルは暗殺されるが、労働者と農民の間の関係を広げ、ポピュリスト運動の基盤を作り上げた。
     ↓
1951年、地下で活動を続けていたパス・エステンソロらMNRは選挙で勝利を収める。しかし保守政権はこれを認めず、軍へ政権を譲った。そして1952年、シレス・スワレ率いる革命軍が蜂起し、ラパスでの市街戦の末、政権を獲得した。そして亡命中のパスが大統領となる。
パスは大統領になるとすぐに、
 ・錫財閥の解体
 ・鉱山を国有化し鉱業公社を設立
 ・普通選挙の導入
 ・無償教育の普及
 ・農地改革を行いアシエンダを解体。

先住民に選挙権が与えられ、アシエンダは耕作するインディオ個人に農地が分配された。そしてインディオという言葉は禁止され、カンペシーノ(農民)と改められた。
これら一連の改革をボリビア革命と呼ぶ。メキシコ革命に次ぐラテンアメリカ第2の社会革命である。

しかしアメリカやIMFの支援を受けたにもかかわらず、国民の生活水準は上がらず、一人あたりの国民所得は1960年610ドルだったが、35年後も780ドルにとどまった。
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MNRの政権は12年間いろいろな大統領のもと続くが、次第に鉱業公社COMIBOL)は労働者勢力を地盤にもつ中央労働本部とともに知識人と中心とし、政府に要求を突きつける強力な存在となっていった。これらの抗議を抑えるため、第2次パス政権はアメリカの支援のもと軍を再建する。
アメリカは冷戦の最中で、ボリビアの共産主義化をおさえるため、「進歩のための同盟」のもと支援を行った。ボリビアは一人当たりの額でアメリカの最大の援助受け取り国となった。


2012年11月11日日曜日

ボリビア⑥

歴史編④
















6.政党政治の時代
太平洋戦争終了後、政治家たちは国家のあり方を考えるようになる。チリと停戦を求める保守党と戦争継続を求める自由党が誕生する。
はじめに主導権を握ったのは保守党で、就任したアルセ大統領は史上初太平洋岸のアウトファガスタ市から主要鉱山をつなぎラパスに至る横断鉄道建設に着手した。
しかし1870年以降米国とドイツが銀本位制を金本位制に切り替えるとボリビアはほかの有力輸出品を開発する必要が生じた。
     ↓
欧州での工業化の進展で、の需要が増加する。そして錫の輸出が急激に発展し、1913年には輸出の70%を占めるようになる。
(銀は1891年に60%を占めていたが、1913年には4%に落ち込んでいる。)
     ↓
保守党は錫鉱山の独占に失敗し、その隙に新興資本家が独占に成功する。その中でも有名な3財閥がパティーニョアラマヨホッホチルドである。
新興の錫財閥は国家への影響力を強めるために自由党に歩み寄りラパスに拠点を置き、職能グループとも結束を固めた、ここに南部のスクレ、ポトシの銀鉱山部を拠点とする保守党と対峙する。
     ↓
1899年、錫財閥と結束した自由党は先住民と結束し、保守党政権の転覆を図った。この闘争は「連邦革命」と呼ばれる。
先住民が自由党に協力しのは、保守党政権メルガレホ大統領時代、先住民の共有地の多くが接取され農地へと再編された。メルガレホ失脚後も1874年法が制定され、共有地の永大所有が禁止された。共有地返還を求める先住民で、ラパス県シカシカ地方のアイマラ人カシケ(共同体の指導者)ウィリュカは先住民の権利を回復することを条件に自由党に協力した。

先住民協力のもと保守党の駆逐することに成功した自由党は、今度は先住民の急進化を恐れ、協約を一方的に破棄し、弾圧を始める。こうして連邦革命は「白人」対「先住民」という形をとり終結した。
     ↓
政権を握った自由党はラパスに首都機能を移し自由貿易体制をとる。

2012年11月3日土曜日

ボリビア⑤

歴史編③
















4.独立後
終身大統領になったスクレも3年後に保守的なクリオーリョの反発を買い、国外に脱出することとなった。そして1829年、アルト・ペルー生まれのアンドレス・デ・サンタ・クルスが大統領に就任すると国土と経済の安定化を目指した。特に力を入れたのが国内の綿衣産業の育成である。そのため、外国からの綿製品輸入の一時停止、貿易港の制限、関税の値上げといった政策をとった。
     ↓
1835年、ペルーの親サンタ・クルス派を救済するという名目でペルーに介入し、1836年にペルー・ボリビア連合国を樹立した。
しかし軍事バランスが崩れるのを恐れたチリはアルゼンチンと共同して同年12月に連合に対して宣戦布告する。壊滅的な打撃をうけたサンタ・クルスは欧州に亡命し、連合は1839年に瓦解した。
     ↓
その後、ホセ・バリビアン将軍やホセ・ミゲル・デ・ベラスコ政権等国内安定に尽力したおかげで、経済も好転していく。しかしこの後、ボリビアは独立後170年で180人の大統領が就任することになる。

5.太平洋戦争
当時ボリビアの領土は太平洋まで達していた。チリとの国境は砂漠地帯で人が住んでおらず、国境も明確でなかった。そんな19世紀半ば、このリトラル県グアノ海鳥の死骸や糞の体積で肥料となる)、硝石の鉱脈が発見される。チリはこの地をボリビア領と認めたものの開発は両国共同で行うことを主張。
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ボリビア領であるが、アントファガスタ市の人口は90%がチリ人であった。さらに1870年代に銀鉱も発見されると、ボリビア政府はこの地域の税率を引き上げた。これに反発したチリ人に本国も軍隊を派兵し、ここに太平洋戦争(war of Pacific 1879~1884年)が始まる。
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戦いはチリが圧倒的に優位のうちに終わり、1884年4月4日バルパライソ条約が結ばれ、アタカマ地方は完全にチリに譲渡された。そしてボリビアは完全に内陸国となった。チリは代わりにチリはラパスから太平洋までの鉄道を建設した。内陸国のボリビアが3月23日を『海の日』に制定しているのは、ボリビア人が今でもこのときの戦争での領土の消失を恨んでいるからである。そして今でも取り戻そうと考えている。

2012年10月27日土曜日

ボリビア④

歴史編②

















3.スペイン征服時代
スペイン国王は植民者やピサロの部下に土地を分割し、その地域の防衛と原住民を教化することを条件に王権を代行して先住民から租税を徴収し、労役に挑発する権限を与えた。この制度はエンコミエンダと呼ばれる。先住民はスペイン人に奴隷として扱われた。
     ↓
ボリビアはペルー副王領チャルカスのアウディエンシアの管轄下におかれ、アルト・ペ
ルーUpper Peru」(別名チャルカス「charcas」)と呼称された。
1538年チャルカスの首都としてラプラタ市(現スクレ市)が建設された。
王党派指揮官アロンソ・デ・メンドーサはチャルカスに派遣され、1548年にチュキアポ近郊にヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス(後のラパス)を建設した。
     ↓
1545年、原住民ディエゴ・ワルパポトシの山に銀鉱床を発見されると各地から鉱山業者が殺到した。そして人口16万人の町が形成されていった。ポトシは西半球で最大の都市となり、ポトシ銀山は世界でもっとも利益ある鉱山となった。1570年代にはリマからクスコを経てポトシへ至る道路「銀の道」が整備された。しかし高度4000mでの鉱山労働は過酷を極めた。そこで副王トレドはミタと呼ばれる原住民に対する鉱山労働の賦役の制度をつくり労働力を確保した。こうしてポトシに銀はハプスブルク家の重要な収入源となり、また欧州に商業革命を起こした。
     ↓
17世紀になると銀の埋蔵量が枯渇し始める。1776年、アルト・ペルーはペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領(現アルゼンチン領)へ編入され、さまざまな改革が行われた。そのことが、各地で反乱を引き起こした。1780~1781年、メスティーソのトゥパック・カタリの反乱は白人支配者を震撼させた。トゥパックはコレヒドールを殺害し、ラパスを包囲するが、最終的には支配者側に鎮圧された。この反乱で2万人以上の原住民が殺害された。
 ★トゥパック・カタリ
   本名はフリアン・アパサ。同時代の原住民反乱のリーダーであった「トゥパック・アマル」と「トマス・カタリ」両者からそれぞれの名前の一部をとって「トゥパック・カタリ」と名乗った。「輝けるヘビ」という意味。首長(カシケ)でもなく、白人の上流階級の人々と交流することも不慣れであった。教育を受けておらず、アイマラ語だけを話した。

19世紀に入ると欧州本国がナポレオン戦争により衰退していく。そんななかボリビア各地で反乱運動が起きた。その最初の独立運動に上げられるのが、1809年クリオーリョであるペドロ・ドミンゴ・ムリーリョがラパスで起こした反乱である。しかしこれはリマの副王に制圧され、ムリーリョは処刑され、後に「ボリビア独立の先駆者」と呼ばれるようになる。
     ↓
ベネズエラのクリオーリョ、シモン・ボリヴァルは1811~1813年にベネズエラの独立を果たすが、王党派の巻き返しにあい、その後も独立運動を繰り返す。1821年コロンビア、ベネズエラを陥落させ、1822年副官のアントニオ・ホセ・デ・スクレによってエクアドルの解放が達成された。そしてボリヴァルは三国を合わせたグラン・コロンビア共和国を建国し、その初代大統領となった。そして残ったのがペルーとアルト・ペルーである。
↓                        
1824年、アヤクチョの戦いでスクレが王党派に勝利し、ペルーは独立した。そして翌年1825年8月11日アルト・ペルーも独立。その新国家を「ボリビア共和国」と名付けた。アルト・ペルーはラプラタ連合州やペルーと統合することなく、独立の道を選んだ。そしてスクレが終身大統領となる。

2012年10月23日火曜日

ボリビア③

再び南米に戻り、ボリビアを続けて紹介していきます。

歴史編①















1.先史時代(プレインカ)
BC1500年、アンデス山脈の西側クスコを拠点にしてチャビン文化が興る。チャビン文化は周辺に大きな影響を与えた。そのひとつがチチカカ湖南東岸のチリパ文化である。
チリパは前期(BC1500~BC1000)、中期(BC1000~BC800年)後期(BC800~BC250年)の三期に分けられる。
前期では湖岸の動植物の採取、狩猟による生活が営まれていた。中期にはラクダ科動物の飼育や農業が興った。そして後期になると祭事儀礼の祭壇や半地下広場が作られるようになった。そこからはキノアやジャガイモ、土器などは出土している。
     ↓
チリパ文化の次に現れたのはティワナク文化(BC200~1150年)である。この文化は五期に分けられる。そのなかでも三期(300~500年)には巨大な祭祀建造物が作られた。四期には温暖な東部や南米の南部へ勢力を拡大させた。それはティワナク遺跡の太陽の門やポンセの石像に見られる文様がペルーのワリ文化などにも見られることからも明らかである。
またティワナクはすばらしい陶器や金の飾り物、彫刻の施された柱や石版を作った。その彫刻のデザインは彼らの指導者、そして神であるヴィラコチャが描かれている。 
 ★ヴィラコチャ
先住民族アイマラ民族の創造神であり最高神。またインカ神話でも最高神。アイマラ民族の神話では原初の時代にチチカカ湖に現れ、天地を創り、多くの民族を粘土で創った。その姿は頭に太陽をのせ、手には稲妻を持ち、雨の意味を持つ涙を目から流す姿で表される。そして最終的には敵対する住民を鎮め、海の彼方に去っていく姿が描かれている。インカの時代太陽神インティを最高神としたが、ヴィラコチャの神格が失われることはなかった。
その後五期(800~1150年)衰退する。この900~1475年の間についてはいまだ研究が進んでおらず、詳しくはわかっていないが、それぞれ異なる文化の民族が小さな文化圏を作り、暮らしていたとされる。

2.インカ帝国
15世紀後半になるとインカ族が興したインカ帝国が勢力を拡大する。もともとインカ帝国はクスコに拠点にしていたが、1440年頃、8代目の王ヴィラコチャ(ティワナクの神とは別人)はティワナクを制圧する。インカ帝国は彼らの宗教を禁止したが、言語や習慣はそのままにした。
またインカ帝国の呼称は征服後のスペイン人がつけたものであり、彼らは自らの国をタワンティンスーユ(四つの州)と呼んでいた。文字通り帝国を4つに分けて支配した。その中でボリビアはコリャスーユと呼ばれ、現在の公用語のケチュア語が普及し高度な都市文明(土木・建築・染織等)がこの時期伝わった。
     ↓
コリャスーユはインカ帝国にとって危険な土地であった。チチカカ湖南岸から東岸にくらしていた集団は度々インカに反旗を翻した。そのため討伐され、他の土地に以上させられた。そして代わりに別の信頼できる集団を連れてくるという政策(ミティマエス)がとられた。
     ↓
インカ帝国の繁栄は長く続かなかった。コロンブスが新大陸を1492年に発見後、多くの西洋人が訪れるようになる。1526年にはポルトガル人がラプラタ(現在のスクレ)方面からボリビアに進出し、インカ帝国が黄金を貯蔵している事を知り、征服者たちに「エルドラド」の夢を抱かせた。
インカ王ワイナ・カパックが死ぬと、内戦がおき、アタワイパが最後の正統な王となる。
     ↓
1532年、ペルー総督フランシスコ・ピサロは混乱に乗じて180人の軍隊をインカ帝国に侵入させ、王アタワイパを捕虜とし、莫大な黄金を手に入れる。その後王を処刑し、傀儡皇帝マンコ・カパックを王座に据えた。1533年ピサロはクスコを陥落させ、インカ帝国は滅亡した。180人でインカ滅亡させた裏には圧倒的な火力をもつスペインに青銅・新石器時代の武装のインカ帝国はなすすべがなかったからである。


2012年10月18日木曜日

ベルギー④

歴史編③


















1830年ネーデルラント国王で新教徒ヴィレム1世の支配に対して、独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。1831年ドイツの連邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。
     ↓
1839年オランダはベルギーの独立を承認し、ベルギーが領有していたルクセンブルク大公国とリンブルフをオランダと分割した。そしてベルギーを永世中立国とした。
これは新教国オランダと旧教国ベルギーの同盟により軍事的脅威をなくすものであった。
また同年ベルギー憲法を制定しブルジョワジー男子により二院制国王の行政行為は首相の承認を要すると規定した。これは外からつれてくる新教徒の国王へ対抗するためのものであった。
     ↓
1885年第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカのコンゴ自由国を領有する。
  国と称しているが実質はザイール川流域の私有地である。その後コンゴ共和国→コン
 ゴ民主共和国となる。
同国ではレオポルド2世の残忍な統治で、人口は2500万人から1500万に激減したといわれている。やがて国際的な非難を呼び1908年にベルギーの国家的所有となる、ベルギー領コンゴとして1960年まで支配した。
     ↓
第一次世界大戦では1914年にドイツ帝国に中立を犯されベルギーは占領されるが、1919年のヴェルサイユ条約でドイツ帝国の植民地のルワンダとブルンジを獲得した。第2次世界大戦では1940年にナチス・ドイツに再び占領される。
     ↓
戦後は欧州経済共同体の創設に参加するなど中心的な役割を果たすが、1960年コンゴ民主共和国がベルギーから独立する際、ベルギーの対応の悪さからコンゴ動乱モブツ体制の確立など、コンゴの不安定化に寄与した。
     ↓
現在首都のブリュッセルはEU連合の主要な機関が置かれており、欧州連動の「首都」的な役割を帯びている。

2012年10月12日金曜日

ベルギー③

歴史編その②















フィリップ2世(豪胆公)からフランドル地方はブルゴーニュ公国の『飛び地』として支配をうける。豪胆公は豊かな産業をもつフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った。そしてたびたびフランスに介入していく。
     ↓
しかし1477年ナンシーの戦いにおいてシャルル突進公は敗北し、逆にフランスの介入を受ける。実質的なブルゴーニュ公国の滅亡である。戦死したシャルルの娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家マクシミリアンと結婚。これ以後フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれる。
     ↓
この後、マクシミリアンの息子フィリップ・ル・ボーはスペインの王位継承者ジャンヌ・ド・カスティーユと結婚し、彼はネーデルランド一帯とスペイン王の地位も得た。カール5世はネーデルラント17州すべての主権者として専制政治をおこなった。
しかし同家がスペイン系とオーストリア系に分かれるとスペインの支配を受けるようになる。
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16世紀になるとネーデルラント諸都市はスペインに対して反乱を起こす。これが80年戦争(1568~1648年)である。勝利したネーデルラント17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は1648年のヴェスファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立が承認される。
しかし南部諸州はスペインの支配下にとどまった。この南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。
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18世紀になるとスペイン継承戦争(1701~1714年 スペインの王位継承をめぐり欧州諸国間で争った戦争)の後、再びオーストリア領となる。その後ハプスブルク家の支配に対して反乱を起こし1790年にはベルギー合衆国を建国する。しかし短期間で合衆国は滅ぼされ、再びハプスブルク家の支配下に戻る。
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フランス革命戦争(フランス革命政府へのオーストリアの干渉で始まった欧州諸国間の戦争)が始まると、フランスに占領される。その後1797年カンポ・フォルミオ条約で、リエージュ司教領とともにフランスに併合される。
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1815年、ナポレオン戦争終結後、ウィーン議定書によって現在のオランダとともにネーデルラント連合王国として再編される。
     

2012年10月10日水曜日

ベルギー②

引き続きベルギーについて。本日より歴史編
















歴史編その①
新石器時代、中央ヨーロッパより移住してきた民族が定住を始め、牧畜技術や農耕技術をもたらした、こうした民族と文化の移入はBC1000年頃まで続く。また社会的組織の構築や金、銅、錫の生産などの文化移入がみられる。そしてエジプト産のビーズなども発見されており、地中海世界の広い範囲で行われていた交易にも参加していたことが考えられる。
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BC6世紀、ケルト人がライン川を渡って到来し移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた。
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紀元前後になると、ローマ人との接触が始まる。カエサルがBC57年に著した『ガリア戦記第2巻』にこの地に居住する民族についてはじめて言及された。
カエサルはゲルマン人と共通性を持つ同地のケルト人を総称してベルガエ族と呼んだ。
 ★ベルガエとはケルト語で『勇士』を意味する言葉。
ベルガエ族は多数の部族にわかれてベルギー部族にわかれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地はBC51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州になった。
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ゲルマニアの征服への過程で遠征拠点の都市としてトンヘレン、トゥルネー、アルロンといった殖民都市が築かれた。アウグストゥスの時代にはライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれた。そしてドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとして今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた。
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3世紀、フランク族がライン川を超えてローマ帝国に侵入をはじめ、多数の都市を占領していく、こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していく。
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弱体化していくローマ帝国のユリアヌス帝は358年、サリ族トクサンドリア定着を認めた。
 ★トクサンドリアは現在のオランダとベルギーにまたがる地名。ブラバンドのこと

481年、次第に勢力を増すサリ族の王に即位したクロヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国する。(フランク王国)
そしてクロヴィス1世はその後、北海からピレネー山脈にいたる領土を手に入れた。しかしクロヴィス1世死後、内部対立で領土は分割相続され、衰退していく。
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7世紀中頃、アウストラシアの宮宰、ピピン2世が頭角をあらわし、687年、テルトリー会戦でネウストリアに勝利するとフランク王国における支配権を確立した。そして732年、カール・マルテルの時代にはトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利。
751年にはピピン3世がクーデターを起こし、メロヴィング朝にかわり、カロリング朝を興す。
754年、ランゴバルド王国を討伐してラヴェンナを教皇に寄進することにより、宗教的後ろ盾を得た。
 ★宮宰はゲルマン諸国家および諸侯の宮廷職の首位で、もともとは王家や諸侯の私的な家事の管理者。
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カール大帝の時代(768年~814年)、フランク王国は現在のフランス、ドイツ、イタリアに相当する地域を統一。東ローマ帝国に匹敵する大国となる。800年にはサン・ピエトロ大聖堂にてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与される。
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カール大帝死後、843年ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国、西フランク王国、ロタリンギアに分けられた。
さらに870年メルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収される。この結果ベルギー地方はスヘルデ川を境に分裂することとなる
 ★スヘルデ川
  全長350キロ。源流はフランスのエーヌ県。北流してベルギー、オランダを通り北  
  海へ流入。
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9世紀、ノルマン人の襲来により、各地で地主や司教たちを中心として、フランドル伯領、ブラバンド伯領、リエージュ伯領、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルグ伯領、ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した。なかでもフランドル伯領はリネンの交易でヨーロッパの工場としての地位を築いた。
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10世紀、城や砦のまわりに居住地(ブルグス)ができる。そこで一部の特権を与えられた住民層はブルゲンセスとよばれ、彼らは一定条件を満たすもの同士コミューンと呼ばれる共同体をつくった。そして領主に対して、金銭の支払いや奉仕を交換条件として、税の免除や自治権を獲得していった。こうして領主と一部の特権階級者によって都市は支配されるようになっていった。
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ブラバンド公国はケルンと海港都市ブルージュを結ぶ道路上あり、封建公国のなかでも主要な役割を果たした。特にブラバンド公国のジャン1世の時代1288年ウォーリンゲンの戦いでケルンの皇子司教だったヴェスターブルクのジークフリートの領土拡張の試みを打ち破った。
しかし世襲貴族と平民の間では争いが各都市で表面化してきた。1302年貧しいフランデレンのコミューン人民とナミューンの盟友はフランス封建時代でもっとも有名な一族を含む騎士たちを圧倒した。この『黄金の拍車の戦い』の勝利で、リエージュやブリュッセルでは世襲貴族参事会員の権力を減らし、市評議会にも職人の代表の参加を認めるようになった。そして個人の自由と個人の住居の不可侵が保証され、そのほか皇子が約束を遵守しない場合、皇子に対する反乱の権利が肯定された。
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1337年フランドル伯領の諸都市はイングランド王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こす、一時的に通商の特権を獲得するなど成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃をうけ、ブルージュが征服される。そしてフランドル伯死後、ブルゴーニュ公国に組み入れられる。