9.軍政の時代
1964年パスが3度目の大統領に就任すると革命運動は分裂し、自ら再建した軍により政権を追われる。そして政権は軍にわたり1982年までボリビアは軍政下に入る。
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そして軍は右派と左派に別れ、抗争を続けた。保守派のバリエントスは左派・社会主義者への締め付けを強化。
1966年11月4日、キューバの革命家チェ・ゲバラは南米大陸運動の拠点を求めてボリビアに来るが、革命軍は農民層の支持は得られず、1967年アメリカ軍の支援(CIA)を受けたボリビア政府軍に捉えられ、10月9日銃殺された。
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バリエントスが飛行機事故で死亡した後、軍の左派に実権が移る。労組、農民組合、学生などの利益集団の共同当時がよみがえり、左翼革命運動(MIR)が誕生させ、反米化の動きを強めた。
1971年、左派ウーゴ・バンセルが政権を握ると労働運動を抑え、外国投資を誘致する政策に転換、公務員を10万増やし、中間層の支持を取り付けた。天然ガスの輸出の伸びもあり、一時的に経済ブームをもたらしたが、その後、財政赤字と三倍の累積債務を生み出した。
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バンセルが政権を追われたあと3回の大統領選挙と5回のクーデターがあり、経済は悪化する。とくに81年に政権を掌握したガルシア・メサ将軍は反対派の弾圧と麻薬マフィアとの関係から国際的に孤立し、経済悪化を深めた。
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1982年に就任したシレス・スアソは財政緊縮策など行えず、国際支援も受けられず、反対に物価統制や為替の固定相場制等の政策はハイパーインフレを起こし、84年から85年の1年間で26000%の価格上昇があった。与党は分裂し、統治能力を失ったシレスは大統領の座を辞した。
10.民主化
1985年、総選挙が行われ、その結果74歳のパス・エステンソロが約20年ぶりに政権に復帰した。
パスは国家再建のため大統領令第21060号新経済政策(NPE)を発表した。
・価格、為替、貿易の自由化
・国営公社の合理化
・補助金の削減
急激な改革で経済は安定するが、鉱山公社の労働者は削減され、民間企業でも貿易の自由化で失業者が増加。労組は鉱山からラパスへ行進で対抗するが、政府は軍を導入し指導者150人を逮捕する。
ボリビアの経済の安定と民主化は未曾有の危機を背景に政党間の協定による協調体制による。これを「協定による民主主義」と呼んだ。
またパスは東部アマゾンへの移住を促進し、日本からの援助のもと道路の建設、雨林の開発を行った。
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1989年選挙での敗戦後、1993年の選挙では、アメリカ育ちの新自由主義者で「ゴニ」と呼ばれたゴンサロ・サンチェス・デ・ロサーダはトゥパック・カタリ革命運動の指導者ビクトル・ウーゴ・カルデナスを副大統領候補に指名し当選する。
彼の政策は「資本化法」で、増資による民営化、電力・通信・航空・鉄道・石油公社などに外資を導入し産業を近代化させた。
その他、政府所有の資本(51%)を国民の年金へ、教育改革では教育の質の改革と二言語教育を行った。地方自治体における先住民の政治参加を促した。
1994年の憲法改正で、メスティーソ中心の国民国家形成からはじめて「多民族多文化」を前提とする国民国家の建設を目指すようになった。
各種の改革や年金制度は国際的には注目されたが、国民の支持にはつながらなかった。
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1997年選挙では元軍人のウーゴ・バンセル(ANDのリーダー)に政権が移ってから国民の不満は爆発する。ガス料金の値上げ、コチャバンバの水の民営化を機に騒乱に発展。違法コカ栽培の根絶に反発した農民反乱を巻き込み、幹線が封鎖される。ラパスでも交通網が停止するなど各地で抗議運動が起きる。
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バンセルは2001年に病気で辞任。副大統領が大統領に昇格するが、政権は統治能力を欠いていた。
2002年の選挙ではサンチェスが再選し、2期目をつとめるが統治能力はなく、各政党との連立するも「協定による民主主義」は破綻した。2003年10月12日ガス戦争が勃発し、エルアルトで警官隊と住民が衝突し、16名が死亡した。サンチェスは辞任しアメリカへ帰った。後をついだメサ大統領も辞任に追い込まれた。
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2005年の選挙で、エボ・モラレスが初の先住民の大統領となる。モラレスは先住民、農民、住民組織、労組など社会運動を基礎とする社会主義運動(MAS)を基盤する。そして白人系知識人で左派のガルシア・リナレスを副大統領に据えた。モラレスはオルロの貧しい村で生まれ、リャマを追いかけた幼少時代を過ごした。当選後もネクタイをせず統治するスタイルをとっている。
2006年にはボリビアの天然ガスの国有化、コカ根絶政策の見直しを行った。
また憲法の改正を行い、先住民により強いパワーを与え、そして土地所有の制限をし、貧しい先住民の農家に土地を持たせた。
2009年に、モラレスは再選を果たし、新しい5年の任期を始めた。
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