2013年10月8日火曜日

ルクセンブルク⑥

都市編③












エシュテルナッハ(Echternach)
人口-5200人
面積-20.49 km²
ルクセンブルク最古の町、『ルクセンブルクの小スイス』と呼ばれています。

歴史
アイルランド出身のベネディクト派修道士ウィリブロードは698年トリアーに
滞在中、尼僧院の修道院長より、近くのエピテルナクス村の修道院と教会を与えられた。
ウィリボードはここにカトリック大教会(バジリカ)を建設し修道院を拡張した。
その周辺に定住して町は発展した。
     ↓
950年、アルデンヌ伯爵ジークフロイトがエシュテルナッハ修道院の権利代行者と
なり、963年にはトリアーの修道院からアルゼット川に囲まれた土地を譲り受け、
この地を拠点に後のルクセンブルク国を築き上げていった。
     ↓
現在のエシュテルナッハはルクセンブルク市で暮らす人々にとって人気のある保養地で、
ザウアー川のキャンプ地に滞在して、ハイキングや川遊びを楽しんでいる。
聖霊降臨祭(イースターの後の第七日曜日からはじまる)の火曜日の朝には
聖ウィリボードにちなむ「ダンシング・プロセッション(ダンス行進)」が行われる。
また5月と6月には国際音楽祭が開かれる。

見所
・聖ウィリブロード大教会
 もともとは聖ウィリブロードが706年に創建。しかし1017年には焼失し 
てしまう。その後11世紀に再建されたものがオリジナルとされる。
第二次世界大戦でドイツ軍に破壊されるが、今は修復され、11世紀の姿を
 見
ることができる。

 アーチ型の窓を2つ並べた四角い塔が2つありと、その上に乗ったピラミッド型の
 屋根をもつ典型的なロマネスク様式建築である。
 内部は両脇に廊下のある3層式会堂。ホールを支える四角い柱の間に円柱を
 配置した珍しい構造の支柱がある、このような柱を『エシュテルナッハ式』と
 呼んでいる。
 祭壇の右脇に立つ石像は聖ウィリブロードである。

・エシュテルナッハ修道院
 修道院は10~11世紀に最盛期を迎える。
 現在のってものは1737年に再建されたもので端正なバロック様式。
 1797年修道士たちは追放され、修道院の有名な図書館とその所蔵物は競売に
 かけられた。
 図書館には聖ウィリブロードが手がけた装飾文字の写本が残されていた。
 現在オリジナルはパリの国立図書館などにある。
 現在修道院は博物館となっている。エシュテルナッハの歴史や修道院の宝物が
 展示されている。

 修道院の北側には付属の庭だったオランジェリーがある。
 中央には18世紀のロココ様式の館がたっています。



2013年9月28日土曜日

ルクセンブルク⑤

都市編②











ルクセンブルク・シティーの見所

①サントル(旧市街)
 13~14世紀に誕生。
 中央駅からリベルテ通りを進むと深い谷(ペトリュス渓谷)が現れる。
 サ
ントルの入り口となるのが
 アドルフ橋、長さ84m。谷の深さは50m。
 
谷底を流れているのがペトリュス川。このペトリュス川と南から流れてくる
アルゼット川によって三方を取り囲まれたルクセンブルク市は城塞都市として
発展してきた。
 観光名所は中心のギョーム広場に集中している。
 ・ギョーム広場
市庁舎のあるギョーム広場にある騎馬像は19世紀のルクセンブルク公
  ギョーム2世
。1840年に王位についたギョーム2世はルクセン
ブルクの統治に関して国民の願いを真剣にきき、「ルクセンブルクはル
クセンブルク人によって統治されるべき」と宣言して国民に支持された。

 ・憲法広場
  アドルフ橋わたり、すぐ右。憲法広場に立つのは
  黄金の女神像『ゲレ・フラ(
Gelle Fra)』。
  第一次世界大戦の戦没者慰霊碑で、第2次世界大戦時にナチスによって
  破壊されたその後1985年、2つの戦争の犠牲者のために再建された。
  40mのポールの上に立つ女神は月桂樹の冠を掲げている。

 ・ノートル・ダム大聖堂
  17世紀に建立されたイエズス会の教会。後期ゴシック様式。
  内部の祭壇背後のステンドグラスには十字架にかけら
れたキリスト像が
  描かれている。キリスト誕生のジオラマ
のある。
  聖堂脇には
シャルロット大公の像がある。
またここではジャン前大公がジョセフィーヌ・シャルロット(ベルギー王女)と
  結婚式を挙げた場所でもある。

 ・サン・ミシェル教会
  最初の建設は14世紀と、町で最も古い教会。
  ボックと魚市場の間にある。教会には龍を退治する大天使ミカエルの像がある。

・大公宮殿
  ルネサンス様式の建物。土台は13世紀に築かれ、500年近く市庁舎 
として使われ、1890年に大公の宮殿となる。現在は主に謁見場所と 
して使われ、議会は向かって右端にある。大公一家は普段は市北東20 
キロのコルマール=ベルク城などに住んでいる。大公がこられていると   
きは国旗が掲げられている。

②グルント
13~14世紀に誕生。谷間に開けた低い土地に民家が密集している。
14世紀皮なめし工など、水を使う職人たちが住み着き、次第に皮なめし業と
 関係のある。靴職人や毛皮加工業者なども住むようになった。
15世紀になると、
 パン屋、鍛冶屋、ビール醸造者などが加わった。
17世紀ルクセンブルクが
 フランス軍に占領されたときにグルントのかなりの部分が破壊されてし
まった。
 現在はレストランや居酒屋や小さなギャラリーが並ぶ地域。

  ・ボックの砲台
  三方を川に囲まれた断崖絶壁に963年ジークフロイト伯爵は難攻不落の

   ルクセンブルク城をつくった。現在見られる城塞は17世紀末ルイ14世が
支配していたころ、フランス軍によって築かれたものである。
1714年からフランス革命軍に占領される1795年まで
   ルクセンブルクはオーストリアのハ
プスブルク家の手に渡る。
   その間オーストリア軍は26キロにも及ぶ地下壕を建設した。
   地上に
くらべて被害が少なく、現在もそのうち20キロが保存されていて、
   博物館として公開されてい
る。またルイ14世時代にフランス軍が
   おいていった大砲が置かれている。大砲にはブルボン王
家のユリの紋章が
   ついている。地下壕は
1200人の守備兵を一度に収容できる規模であった。
   第2次世界大戦中は防空壕として多くの市民を作った。
  
  ・兵舎跡
   17世紀末ルイ14世の軍隊によって建てられた建物で、
   現在は老人ホームとして使われている。
   兵舎に水を供給していた古い井戸が残っている。
  ・トリアー門

   兵舎の先に中世には砦の役目を持っていた東門がある。ドイツのトリアーに
   続いていたことから『トリアー門』と呼ばれている。門には兵士たちが刀をといた跡が残っている。
  ・水の精の声
   アルゼット川沿いに歩き、川をわたって旧市街にいく途中、川へ降りる階段で
 段を踏むと『メルジーネ』と自動的にテープの流れるところがある。
『メルジーネ』は水の精である。
   (メルジーネ伝説)
     10世紀、ジークフロイト伯爵の時代に下半身は魚で、
     上半身は人間のメルジーネという水
の精がジークフロイトに恋をして、
     人間の姿になって伯爵の前に現れた。伯爵は彼女をかわ
いがり、
     城にすませた。
しかしある日に、水浴びをしているメルジーネの
     下半身が魚であることに驚く。そして姿を
見られたメルジーネは絶望の
     あまり、高い崖からアルゼット川に飛び込み、
     伯爵の前に以後
姿を現すことはなかった。
     しかしメルジーネは伯爵を想い毎晩歌を歌い続けているといわれ
ている。
                           
③キルシュベルクの丘(新市街)
 
 ヨーロッパセンターや銀行の本部
などがある。1960年後半からこの丘に
 次々と斬新な高層ビルが建設された。
 1963年、旧市街と丘を結ぶ橋、シャーロット女大公橋が建設された。
 深いアルゼット渓谷に建てるため頑丈な鉄で建設され、赤く塗られていることから
 『赤い橋』と市民に呼ばれている。また「鉄鋼で栄えた国」を象徴している。
 1966年に最初の高層ビルが丘に建てられた。
 欧州連合の定期閣僚会議も年3回、
 ここの会議センターで開かれている。
1990年代に入ると急速に発展し、
 ホテルの建設も行われ、大規模なショッピングセンターやスポーツセンターも
 誕生した。2005年には丘の南に斬新な
フィルハーモニーが完成した。

2013年9月12日木曜日

ルクセンブルク④

都市編①












ルクセンブルクシティー
人口-88,586人(都市圏人口は103,973人)
面積-51.46 km²
ルクセンブルク大公国の首都である。
標高はおよそ500m。1994年に世界遺産に登録されている。
市は現在サントル(旧市街)、ガレ(中央駅地区)、グルント(谷地区)、
キルシュベルクの丘の4つの地区からなっている。


歴史
ローマ帝国時代、2つのローマ街道がこの地を交差していた。
963年トリアーのセント・マクシミン修道院と交わした交換条約で
アルデンヌ伯ジークフリートがこの地を手に入れ、
アルゼット川に囲まれた岩だらけの崖にボック城を建設。

 ★アルデンヌ伯ジークフリート
  西フランク王国のルイ2世の孫で神聖ローマ皇帝オットー1世の姻戚。

戦略拠点に位置していたため、要塞は強化され、12世紀末までに町は
要塞の西方に拡大していった。
ヨハン盲目王(ヨハン・ルクセンブルク)の時代、新しい要塞も造られた。
     ↓
その息子のカール4世は神聖ローマ皇帝となり、ルクセンブルク領主は伯爵から
公爵へ昇格した。
     ↓
1443年、フィリップ善良公(フィリップ3世)によって征服され、
ブルゴーニュ公爵領ネーデルラントの一部に組み込まれる。
     ↓
この後、スペイン領やハプスブルク君主国領としてハプスブルク家の統治下に入る。
この時期に市のお城は繰り返し強化され、ルクサンブルクの要塞は欧州でも最も
強固で壮麗なものとなった。

フランス革命戦争ではフランス軍に2度占領される。2度目の戦闘ではフランス軍の
包囲を7ヶ月間耐え忍んだ。その難攻不落ぶりから『北のジブラルタル』という愛称で呼ばれるようになる。
しかしオーストリア軍は降伏し、市はフランスに併合される。
     ↓
その後、ナポレオン戦争が終結すると1815年のウィーン会議で
ルクセンブルク大公国が誕生するが実態としてはネーデルラント連合王国の
1州として統治される。そしてドイツ連邦に加盟することになり、
プロイセン王国軍が進駐した。
     ↓
フランスとプロイセンの間でルクセンブルク危機がおきると1867年ロンドン条約で
ルクセンブルクは永世中立国となり、市のお城は解体されることとなった。
この時城内張り巡らされた地下通路『カズマット(
Casemates)の取り壊しには
16年かかった。同時にプロイセン軍の駐屯地も廃止された。
     ↓
オランダ国王ウィレム3世が1890年男子を残さず没すると、元ナッサウ公で
あったアドルフがルクセンブルク公となり、完全に独立を果たした。
ルクセンブルク市がその首都となる。
     ↓
第一次世界大戦がはじまると、中立宣言にもかかわらず1914年ドイツ帝国に
占領され、フランスに近いという理由で小モルトケの総司令部が置かれた。
     ↓
1940年、ナチス・ドイツが侵攻。1942年には第3帝国に併合されるも
1944年連合軍に解放される。
     ↓

戦後、ルクセンブルクは中立政策を廃止し、NATOに加盟する。
その後も1952年には欧州石炭鉄鉱共同体の本部となり、現在も欧州議会の
事務局本部、欧州司法裁判所、欧州会計監査院、欧州投資銀行などがおかれている。
欧州委員会もブリュッセルのほかにルクセンブルク市内でも業務を行っている。

2013年9月4日水曜日

ルクセンブルク③

歴史編②













1890年にはオランダ国王ギョーム3世が男子を残さず亡くなったため、
当時女子が王位を継承することができなかったルクセンブルクでは、オランダ王室の
分家であるドイツ系のナッサウ・ヴァイルブルク家のアドルフが
ルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消した。
     ↓
2度の世界大戦において、ドイツの占領下におかれた。大戦中アドルフ公の孫
シャルロット女大公(1919年~1964年在位)は家名を
ナッサウ・ヴァイブルク家からルクセンブルク家へ改名した。
シャルロット女大公はアメリカに亡命しながら、祖国の独立に尽力した。
そしてロンドンに亡命していたルクセンブルク政府は同じく亡命していたベルギー政府、
オランダ政府と連帯を深め1944年に3国はそれぞれの頭文字をとり、
「ベネルクス」協定を終結するに至る。同じ年アメリカ軍によりルクセンブルクは
ナチスドイツから解放される。
     ↓
1948年ベネルクス間で関税同盟を結成した。これが欧州連合の第一歩となる。
1949年にはNATOに加盟し永世中立国を放棄した。
1952年には欧州石炭鉄鋼共同体の仮本部がルクセンブルクシティーに置かれた。

 ★ルクセンブルクは南部で鉄鉱床が発見され、ドイツの技術と資本で大製鉄国家に
  のしあがる。
  EECの設立の際、ルクセンブルクの取り扱いで議論が交わされたが、
小国とはいえイタリア、オランダの生産量を上回る製鉄国であったため、
他の加盟国と同様に扱われ執行機関に代表を送った。
 ★仮本部設置にあたり、フランスはザールブリュッケンつよく押していたが、
他国も自国の都市をおして譲らなかったため、候補地をだしていないドイツが
仲介役にはいり、小都市のルクセンブルクにおくこととなる。
そして仮本部のまま本部としての機能を高めていく。

1957年には欧州経済共同体、1967年には欧州連合、1999年にはユーロ圏に
原加盟国として参加している。
 
 ★1970年欧州通貨統合を初めて提案したのもルクセンブルクの
元首相ピエール・ヴェルナーである。

1950年代
には鉄鋼業は工業総生産の5割以上をしめていたが、
60年代には鉄鉱構造不況の影響で失業問題が発生した。おなじくして
ルクセンブルク市に金融市場が誕生した。1986年には単一欧州議定書が
ルクセンブルクで調印されるなどこの国が中心都市重要な役割を果たしてきた。
持ち株会社の相次ぐ設立、証券取引所の近代化・合理化で金融市場がますます発展した。
経済
21世紀以降、1人あたりの国内総生産(GDP)が世界1位。
1人あたりの国民総所得(GNI)では世界4位だが、購買力平価ベースでは
世界1位。GNIは国民が国内外で稼いだ所得の総和であるから、
単純に世界で所得の多い国民ということができる。

 ★日本は19位

  経済成長率は毎年4~5%で、典型的な福祉国家ではないが、
  失業率は良好に推移し、国内の所得格差が北欧並みに小さい。

  労働力としてポルトガルなどから移民を受けいれたので
  人口の41%は外国人である。


2013年8月28日水曜日

ルクセンブルク②

歴史編①~独立まで












歴史
963年、アルデンヌ家のジークフロイト伯爵が今の首都ルクセンブルクシティーに
砦を築いてリュシュリンブルフク(Luchilinburhuc 『小さい城』)を築いたことに
始まる。この名前が変化してルクセンブルク(Luxemburg)となった。
このころジークフロイトはアルデンヌ伯を名乗っていた。
     ↓
1083年、5代目のコンラート1世からルクセンブルク伯爵位が与えられた。
     ↓
中世(14~15世紀)ルクセンブルク家は神聖ローマ皇帝を4人輩出した。
またボヘミヤ王も4人だした。その中でも、1354年神聖ローマ皇帝と
ボヘミヤ王をかねて「金印勅書」を発行したカール4世によってルクセンブルク家は
公爵家に昇格。
     ↓
しかしルクセンブルク家はカール4世の代で断絶。1461年には
ブルゴーニュ公国に併合された。ブルゴーニュ公シャルルの娘マリーは
ハプスブルク家のマクシミリアンと結婚。ルクセンブルクを含むブルゴーニュ家の
所領はハプスブルク家の支配下に入る。その後、息子のフィリップから
その息子カール5世へとハプスブルク家の巨大な領地と権力は受け継がれていった。
カール5世は1556年に退位し、領土は2分して世襲される。
弟のフェルナント1世には皇帝の位とオーストリアなどのハプスブルク家領土を、
そして息子のスペイン王フェリペ2世にはスペインとルクセンブルクを
含むネーデルラントを与えた。
↓
17世紀前半、30年戦争が欧州でおき、1648年のウェストファリア条約以降も
フランスとスペインの間で戦闘が続いた、そして戦争終結のピレネー条約によって、
スペイン王フェリペ4世はルクセンブルク南部をフランスに割譲することとなる。
それから間もないルイ14世の時代の1684年フランス軍がルクセンブルク城塞を
陥落させ、国全体を支配するようになる。
     ↓
1700年スペイン王カルロス2世の死後相続権をめぐってフランスとオーストリアが
スペイン継承戦争を起こす。その結果カルロス2世の財産は二分され、
ルクセンブルクはベルギーと共にオーストリア・ハプスブルク家の領土となる。
以後1世紀はマリア・テレジアやヨーゼフ2世のもと平穏な時代をすごす。
     ↓
フランス革命とナポレオン戦争時(~1814年)、フランスの支配をうけ、
その後1815年、ウィーン会議の結果、オランダ王ギョーム1世を大公とする
ルクセンブルク大公国となった。フランスの緩衝地としてはオランダの
後ろ盾だけではよわかったので、プロイセンを中核とするドイツ連邦に組み込まれ、
ルクセンブルクシティーの城塞にはプロイセン軍が駐屯することとなる。
     ↓
1830年ベルギーの独立革命の際ベルギーと共に行動し、ベルギーの独立後
ルクセンブルク北半分はベルギーの統治下へおかれた。南側をオランダが
治める形となる。1867年ルクセンブルク大公国をフランスのナポレオン3世が
購入しようとしたことにより、プロイセンとの間に緊張がたかまる。列強は衝突を
さけようと会議をひらく、ロンドン会議でルクセンブルクを非武装の永世中立国と
することが決まり、プロイセン駐屯軍はルクセンブルク市から引き上げた。
ルクセンブルクの城塞も解体されることとなる。

   

2013年8月13日火曜日

ルクセンブルク①

歴史編①












国旗:
1972年に制定された。ルクセンブルク家の紋章に由来する。
オランダと似てるがオランダは濃い青色、ルクセンブルクは明るい水色。
また縦横の比率も異なっている。



←13世紀以来のルクセンブルク家の紋章。
 銀と青の横縞に爪を立てて怒り狂う赤い獅子。







人口-48万人(千葉県の松戸市と同じくらい)

面積-2586 km²(神奈川県と同じくらい。神奈川の人口は約900万人)

政治体制-立憲君主制。
     国家元首は世襲制でルクセンブルク大公が内閣とともに行政権を執行する。
     世界唯一の大公国である。

議会-代議院による一院制。全60議席。任期は5年。直接選挙で選出される。
   また議会にたいして助言をする国務院がある。メンバーは21人で首相の
   推薦の基づき大公が任命する。

行政-3つの広域行政区にわけられる。
 ・ディーキルヒ広域行政区
 ・グレーヴェンマハ広域行政区
 ・ルクセンブルク広域行政区
   広域行政区の下には12の県があり、その下には126の基礎自治体がある。

民族と宗教
-ルクセンブルク59%、宗教はカトリックが多数




2013年7月27日土曜日

ベルギー⑫

◎ベルギービール














ベルギーには160のビールの醸造所があり、約800種類のビールを製造している。
アルコール度3%~10%のものまであり、またハーブやフルーツ、スパイスを
使ったものなど種類は豊富。

ベルギービールには修道院でつくったビールがある。
2種類ありトラピストビールとアビービールである。

・トラピストビール
  シトー派の中でも厳しい戒律でしられるトラピスト会修道院の内部の
 醸造所のみでつくられたもののみトラピストビールを名乗ることができる。
 現在世界にトラピストビールを名乗ることが許されているのは6ヶ所しかない、
 そのすべてがベルギーにある。 ワロン地方にはシメイ、オルヴァル、ロシュフォールと
 3つのビールが世界的に有名。

 ●オルヴァルビール
   オルヴァル大修道院の中で造られるビールで、ホップの量が多く、苦いが強いのが特徴。 
   「オルヴァルビールは初めて飲む人がおいしいと感じるビールではない」と工場担当者も
   言うくらい。しかしこの味を好きになった人は病み付きになる。
   万人にすかれるビールを目指していないので生産量も多くない。瓶つめ能力も1時間2万本。

 (醸造)
  修道院の廃墟内にあるマチルダの泉の水、大麦モルト、
  アロマホップ(ドイツ産とスロベニア産)、少量のキャンディーシュガーが原料。
  醸造所での貯蔵期間は3週間、と通常のビールより長く熟成させる。さらに直前に少量の
  キャンディーシュガーを加えてビン内発酵を確実にしたうえ、発酵所で5,6週間も
  ビン内発酵させる。第3次発酵である。こうしてやっと出荷である。フィルターろ過や
  熱処理は一切行わない。オルヴァルビールのアルコール度は6.2%で、第3次発酵では
  温度が摂氏15度。そのため12度から14度くらいで冷やすのが理想とされる。
  また日本ビールは生産してからできるだけ早く飲んだほうがよいとされるが、
  オルヴァルビールは5年もつ。その間も発酵していく。

  オルヴァルのビールは初め修道院再建の資金つくりのため。最初の醸造責任者は
  ドイツ人だったという。50年前に最新設備を導入して現在にいたるが、原料、醸造法などは
  伝統をまもり、今でも1種類の商品しか作っていない。

・アビービール
 修道院でつくるビールの伝統的なレシピや醸造法を受け継いで委託された醸造所のみが
 製造するビール。シネイなど。

◎ ビールの基本情報
 ビールはワインと違って発酵させるために酵母(イースト)をくわえる。
その酵母が発酵のあと上に浮かんでくるものを
上面発酵酵母(この酵母をつかって作ったビールを上面発酵ビール)、
下に沈むものを下面発酵酵母(この酵母を使って造ったビールを下面発酵ビール)に
分けられる。日本でなじみがあるピルスナーは下面発酵ビールで、
ベルギーでもこの下面発酵ビールが全体の約68%をしめる。
 しかし上面発酵ビールや自然発酵ビールにこそベルギービールの本質がある。

上面発酵ビール(エール)には
・トラピストビール
・アビービール
・ホワイトビール、レッドビール、ブラウンビール
→モルト50%、小麦40%、カラス麦10%、香り付けにハーブ
 (オレンジピール、コリアンダーの種など) がある。

・自然発酵ビール(Spontaneous fermentation)
 自然発酵でできるビールをランビックという。 またそのランビックの若い一年ものと
 オールド・ランビックをブレンドし、瓶詰めしたあと、数年ねかせ、さらに発酵、熟成させたものを
 グーズと呼んでいます。

 ランビックにクリーク(すっぱいさくらんぼで生食には適さずパイやジャムにする種類)を
 漬け込んだものをクリークと呼ぶ。クリークというとこの果物というより、
 ビールを指す場合が多い。 そのほかにも、砂糖を加えたファロ、
 桃のジュースを加えたペッシャレス、木いちごを加えたフランボワーズがある。

 ベルギーは気候的にワインを作ることができない、そのためワインのような色彩と香りの
 クリークを作られるようになった。ランビックは培養酵母を加えずに発酵させる、
 醸造方法もワインに似ている。 ランビックの素材はホップと水、大麦のモルトとモルトに
 しない小麦を7対3、または6対4の割合で用いる。ホップの香りはランビックの味を
 そこなうので新しいホップはつかわず、収穫から1~3年たったふるいホップを使うことが大切。
 ホップの目的は保存がきくように、綺麗な泡が出るようにするためである。
 ランビックの醸造所はブリュッセルから約15キロ以内のゼナ渓谷に集中している。
 ほかの土地ではランビックはつくれない。20世紀初頭には醸造所は50~60あった。