2013年9月4日水曜日

ルクセンブルク③

歴史編②













1890年にはオランダ国王ギョーム3世が男子を残さず亡くなったため、
当時女子が王位を継承することができなかったルクセンブルクでは、オランダ王室の
分家であるドイツ系のナッサウ・ヴァイルブルク家のアドルフ
ルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消した。
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2度の世界大戦において、ドイツの占領下におかれた。大戦中アドルフ公の孫
シャルロット女大公(1919年~1964年在位)は家名を
ナッサウ・ヴァイブルク家からルクセンブルク家へ改名した。
シャルロット女大公はアメリカに亡命しながら、祖国の独立に尽力した。
そしてロンドンに亡命していたルクセンブルク政府は同じく亡命していたベルギー政府、
オランダ政府と連帯を深め1944年に3国はそれぞれの頭文字をとり、
「ベネルクス」協定を終結するに至る。同じ年アメリカ軍によりルクセンブルクは
ナチスドイツから解放される。
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1948年ベネルクス間で関税同盟を結成した。これが欧州連合の第一歩となる。
1949年にはNATOに加盟し永世中立国を放棄した。
1952年には欧州石炭鉄鋼共同体の仮本部がルクセンブルクシティーに置かれた。

 ★ルクセンブルクは南部で鉄鉱床が発見され、ドイツの技術と資本で大製鉄国家に
  のしあがる。
  EECの設立の際、ルクセンブルクの取り扱いで議論が交わされたが、
小国とはいえイタリア、オランダの生産量を上回る製鉄国であったため、
他の加盟国と同様に扱われ執行機関に代表を送った。
 ★仮本部設置にあたり、フランスはザールブリュッケンつよく押していたが、
他国も自国の都市をおして譲らなかったため、候補地をだしていないドイツが
仲介役にはいり、小都市のルクセンブルクにおくこととなる。
そして仮本部のまま本部としての機能を高めていく。

1957年には欧州経済共同体、1967年には欧州連合、1999年にはユーロ圏に
原加盟国として参加している。
 
 ★1970年欧州通貨統合を初めて提案したのもルクセンブルクの
元首相ピエール・ヴェルナーである。

1950年代
には鉄鋼業は工業総生産の5割以上をしめていたが、
60年代には鉄鉱構造不況の影響で失業問題が発生した。おなじくして
ルクセンブルク市に金融市場が誕生した。1986年には単一欧州議定書が
ルクセンブルクで調印されるなどこの国が中心都市重要な役割を果たしてきた。
持ち株会社の相次ぐ設立、証券取引所の近代化・合理化で金融市場がますます発展した。
経済
21世紀以降、1人あたりの国内総生産(GDP)が世界1位
1人あたりの国民総所得(GNI)では世界4位だが、購買力平価ベースでは
世界1位。GNIは国民が国内外で稼いだ所得の総和であるから、
単純に世界で所得の多い国民ということができる。

 ★日本は19位

  経済成長率は毎年4~5%で、典型的な福祉国家ではないが、
  失業率は良好に推移し、国内の所得格差が北欧並みに小さい。

  労働力としてポルトガルなどから移民を受けいれたので
  人口の41%は外国人である。


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