2013年4月8日月曜日

ボリビア⑱

ティワナク遺跡①










ティワナクについてはまだ研究が進められている段階で、詳しくはわかっていない。
それはティワナクの人々は文字を持っていなかったためである。
2000年に世界遺産に登録
最盛期には2.6km²の土地に2万人が暮らしていたといわれている。

歴史:
ティワナク文化はBC500~1200年の間で5期分けられる。
第1期
 BC500年中ごろ、ティワナクに人々が到来し始める。
第2期
 壺などの陶器(水平な持ち手のついた壺)や人や動物の彫像などが作られ始める。
第3期(BC300~500年)
 幾何学模様の3色の陶器が作られる。
第4期
300~700年、巨大な祭祀建造物が建設されるようになり、多くの巡礼者
が訪れる場所となる。青銅と金が使用されるようになり、この時期の陶器は擬   
 人化されたものが作られた。 
第5期
 最盛期を過ぎ、1200年ごろティワナクの人々は忽然姿を消した。

見所:
ティワナクの遺跡に使用されている石は1つ25トンもする玄武岩や砂岩の塊である。
玄武岩は40km離れたコパカバーナの半島の砕石場から持ってこられた。
砂岩ですら5km離れたところから持ってこられている。この地を征服した
スペイン人はアイマラ人にどのように遺跡を建設したのか尋ねると誰もが
『ヴィラコチャの助けを受けて』と答えたという。

・アカパナ ピラミッド(Akapana pyramid
高さ16m7段の階段状の基壇で、大きさは200㎡
頂上部分には半地下式広場が設けられている。周囲には方型の部屋が配置されている。
そこからは銀、銅製品が出土している。当初楕円形のピラミッドの四隅に石の排水溝が
あるため、貯水槽として利用されたと考えられていたが、最近の調査で、
トロフィーのようなものが発見され、ピラミッドは戦勝記念の神殿として利用
されていたのではないかと現在は考えられている。

・カラササヤ(Kalasasaya
ピラミッドの北に位置する。巨大な壁に囲まれた130×120mの広場
赤い砂岩安山岩の巨大な石をしっかり組み合わせた壁(切石積み)で
支えられた基壇で、基壇上には石像(ポンセの石像)や太陽の門がある。
しかし修復はかなり間違えて行われたようで、太陽の門も現在の位置ではなく、
元の位置は不明である。











太陽の門(Puerta del Sol)
 安山岩の一枚岩を組み合わせており、その表面には彫刻が施されている。
まぐさ部分の中央に彫られた両手に笏を握る杖の神の像、アイマラ語で
トゥヌパと呼ばれる雷神・天空神を表したとえられる。
また太陽神ヴィラコチャとも言われている。
そしてその脇には48人の光芒をし、手には笏を握り、
背中に羽をはやして走る鳥人描かれています。
門にあるくぼみは太陽神へのお供え用に利用されたといわれている。
また門全体がある種のカレンダーとして利用されたとも考えられている。
この門の重さは少なくとも44トはあるといわれている。         
ポンセの石像
代表的な一枚岩(monoliths モノリート)の石像

・半地下式神殿(Templete Semisubterraneo
赤い砂岩でできた26m×28mの神殿。その真ん中には半地下の長方形の広場が
あり、壁には175個の石の顔がある。
1960年代考古学者たちが神殿を再建するために石と石の間をセメントで固めたため、
今みるような形になっている。

2013年3月20日水曜日

ボリビア⑰

ウユニ①










面積:約12000km²
標高:3653m

世界最大の塩原。現在塩の採掘量は年間2万トンといわれており、
そのうち18000トンは人間によって消費され、残りは家畜用である。
また世界の50~70%のリチウムが埋蔵されており、現在各国の協力のもと採掘が
進められている。
塩原は驚くほど平ら(塩原全体で1mくらしか標高差がない)で、少し水が張れば
鏡のように空を映し出す。
また平らさから衛星の高度を計測するに最も適した場所である。
 ピンクフラミンゴの主要な生息地でもある。

形成:
海の底だったアンデス山脈が海面から隆起したときにできたのがアルティプラーノ高原。
そのアルティプラーノにはいくつかの真水の湖と塩水の湖を含んでいた。
共に山に囲まれており、外に流れ出る川がなかった。
3~4万年前この地域は巨大な古代湖ミンチン湖Lake Minchin)であった。
ミンチン湖が蒸発したあと約14000年、この地方は干上がっていた。
     ↓
そしてそこに現れたのがタウカ湖(Lago Tauca)だが、
この湖は約1000年ほどで干上がってしまった。
この湖が残したのがポーポ湖ウルウル湖、そして2つの塩原-ウユニ塩原
コイパサ塩原である。アルティプラーノのこの地方の湖は流れ出る川をもっていない。
塩原の塩は山から雨季に流されてきて形成される。

見所:
①魚島(Isla del Pescado
魚の形をしているとこの塩原の中にある島。
丘にのぼるとトリコケレウス属のサボテンと六角形の塩のタイルが一面に見渡せる。
  
②ナグナ・コロラド(Laguna Colorada
面積:60km²
標高:4278m
水深:80cm

ミネラル分を含む水には海草(algae)とプランクトンが豊富な赤色の湖。
湖岸はナトリウム、マグネシウム、ホウ砂、石膏などが豊富である。
そして土砂にはケイ藻植物が豊富で、これらは肥料、絵の具、歯磨き粉、
プラスティック、飛行機の燃料、ビールやワインの生産に利用される。
また南アメリカに生息するすべての種類のフラミンゴが子育てにここを訪れる。
 

2013年3月7日木曜日

ボリビア⑯

ポトシ②










見所:
①ポトシの造幣局(Casa de la Moneda
南アメリカでもっとすばらしい博物館。
最初の造幣局は現在の裁判所の場所に1572年に建設された。
そして副王トレドの時代に現在の1ブロックすべて使った造幣局が
1773年に完成する。そして植民地でのコインの鋳造を行った。
伝説ではスペイン王はこの法案を見たときに、『その建物は銀で作られるべきだ』と
いったといわれている。この造幣局でできたコインには『P』の文字が彫られており、
ポトシスとして知られた。

また造幣局の壁は1mの厚さがある。造幣局は牢獄や要塞としても
利用されたからである。またチャコ戦争の際にはボリビア軍の本部が置かれた。
中庭に入るとバッカスの仮面がかかった中庭が迎えてくれる。この仮面は1865年に
フランス人のユーゲニオ・マルティン・ムーロンがかけたものであるが、
なぜバッカスかは本人しかわかっていない。
  
内部は当時の鋳造用の道具(ラバに引かせた歯車で銀をたたいてコイン用に伸ばす道具
19世以降は蒸気を利用した機械)や祭壇などが展示されている。

展示物の中でも貴重なものは18世紀、ポトシ派の画家によって描かれた
『セロ・リコの聖母マリア(La Virgen del Cerro)』である。
セロ・リコに差し込まれたマリアの戴冠を表している。上部左は聖職者の身なりをした
子なるキリスト、右は雨合羽を着用した父なる神、そして鳥によって擬人化された
精霊の三位一体の聖母戴冠。
またキリストと神のそれぞれ後ろには心臓をもつ大天使ガブリエルと十字架と剣を
もつ大天使ミカエルが描かれ、現世を切り離された別世界を現している。
中断にはインカの神々インティ(太陽)キーリャ(月)も戴冠に参加。
下段現世のさまざまな寓話が描かれ、山が生み出す富に感謝する宗教上の権力者が
描かれている。
左には法皇、枢機卿、司教。右にはスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝
カール5世)と12使途の一人サンティアゴと富の提供者。


2013年2月26日火曜日

ボリビア⑮

ポトシ①










面積:118km²
人口:164,481人
標高:4090m

人が住む都市としては世界最高地のひとつ。セロ・リコCerre Rico 豊かな山)の
ふもとに位置する。そもそも銀の発掘のためにできた町、最盛期は20万の人口
抱えた。植民地本国のマドリッドよりも人口が増えた。アメリカ州でもっとも大きな、
そして裕福な町となった。(西半球でもっとも大きな町ともいわれる)
現在でも『Valer un Potosi(ポトシのように豊かに)』という比喩が使われる。

現地にはインディヘナでケチュア語を話す人々が多い、スペイン語を話す人々も
増えてきている。
1987年セロ・リコ銀山含め、他の構造物と共にポトシは世界遺産に登録された。

歴史:
1544年、インディヘナのディエゴ・ワルパはいなくなったリャマを探していて、
ポトシ(potojsi ケチュア語で『雷』や『爆発』)の山のふもとで火をおこすと
地面が溶け出し、液体が流れ出てきた。そしてその噂を聞いたスペイン人は即座に
行動を起こした。
 ★ワルパは銀をスペイン人譲ったのには理由が....
  インカには山に関する伝説がある。インカ王ワイナ・カパックは
  『ポトシの丘は掘ってはいけない、鉱物はそのままにしておけ、
  それは他人のためにあるものである』と、どこからともなく聞こえる声に
  指示された。おそらくワルパはこの言い伝えを思い出したとも言われている。

スペインは1545年4月1日には、セロ・リコの麓にカール5世の命により
集落を建設。そして大々的な発掘が始まった。またあらゆるところから一攫千金を
狙い多くの鉱山業者がこの地にあつまり、いつしか町ができた。1561年には、
スペイン王フェリペ2世により、町の守護神にサン・アグスティンが指名され、
新しい紋章盾も付与された。
                          
1572年、副王トレドの時代に採掘量を上げるためにミタの義務を原住民に課した。
 ★ミタ
  18歳以上の原住民男子は12時間シフトの採掘を強制され、
  約4ヶ月間衣食住、そして仕事すべて鉱山の中で行わなければならない。
多くの鉱山労働者は爆発などの事故のほかにケイ肺症で亡くなった。
スペイン人は原住民の他にアフリカから黒人の奴隷も連れてきて、鉱山で働かした。
そのアフリカ系民族の子孫は今でもユンガス地方で暮らしている。

また銀の精製方法がワイラス法から、水銀アマルガム法に代わる。
 →銀鉱石を水力で粉砕し水銀と混ぜる、それを原住民に素足で踏んで混ぜさせ、
  その後熱することによって水銀を飛ばす方法。熱した際に毒性の水蒸気があがる。

こういった条件のため、原住民やアフリカ系の奴隷の約800万人が犠牲になったと
いわれている。
     
1672年、町に造幣局が建設され、銀のコインが鋳造された。このころ人口が
約20万人に増え、世界で最大の町のひとつとなる。その人口を支えるため、
水の貯水湖や教会が建てられた。銀は1583年から1783年の間に
約45000トン採掘されたといわれている。その当時の言葉に、『新大陸から
スペインまで銀の橋を作っても、まだその上を渡ってスペインに送るほどの銀が
採掘された。』といわれている。採掘された銀は艦隊によりスペインに運ばれたが、
ときに暴風や海賊によって船がスペインまで辿り着かないこともあった。
     
しかし4世紀続いた銀の採掘も19世紀の半ばになると銀の価格が暴落し、
ポトシの町も衰退していく。その後近年錫が発見される、一時回復するが現在の
ボリビアの主要輸出鉱物である亜鉛と鉛が取って代わった。
それでもセロ・リコでは今も少しの銀と錫の採掘が行われている。
現在は鉱山労働組合によって運営されている。現在の採掘量は抗夫が食べていける位の
量である。それでもラッキーストライクを夢みて今でも抗夫たちは彫り続けている。
こういったセロ・リコを訪れるツアーがポトシの町の旅行者から出ている。

ポトシの名は…
メキシコのサン・ルイス・ポトシ、アメリカの鉛鉱山の町ウィスコンシン州ポトシ、銀鉱山の町ネバダ州ポトシはボリビアのポトシにその名を由来する。

2013年2月17日日曜日

ボリビア⑭

スクレ③










見所:
①自由の家(Casa de la Libertad

スクレの中央広場に面して建つ『自由の家』は1825年8月6日に
ボリビアの独立宣言が署名された場所。内部は当時のまま残されている
もともとこの建物は1700年にイエズス会により建築されたもので、
サンフランシスコ・ハビエル大学の建物として使われていました。
独立後は、この建物は1898年までは国会として利用されており、
その後、行政府はラパスに移転し、この家はその後ボリビア共和国誕生の
歴史を展示する博物館に改装された。

建物の柱は花崗岩で作られ、中庭を取り囲む回廊があり、玄関には大きな
セドロの大木から切り出した木材が使われる。
憲法宣言書は花崗岩の台座の上に乗っている。また木製の天井や聖歌隊席も
一見の価値あり。

②織物博物館(Museo de Arte Indigena
タブラコ(スクレからバスで2時間)の織物の文化について展示。
その他の地方の展示もあり。チュキサカ県北部からポトシ県にかけての
地域はヤンバラ文化が栄え、ハルカ織りやタラブコ織りが生まれた。
この織布の作業は女性だけでなく、男性も行うが、時代と共に伝統が
失われてきたのをNGOが支援を始め、博物館をもてるくらいまでになった。
                    
③カテドラル
建設されたのは16世紀で、ルネサンス様式と後期バロック様式を混ぜた作り。
鐘楼は町のランドマークとなっている。鐘楼は3層になっており、各層の四隅は
キリスト教の聖人が町を見守っている。
1616~1625年、グアダルーペの聖母礼拝堂がその脇に建設された。
鐘楼の時計は1765年にロンドンで購入されたもの。
 
④カテドラル博物館とグアダルーペの聖母礼拝堂
カテドラルに隣接するボリビアで一番の聖遺物のコレクションをもつ博物館。
博物館は4つの部分からなっており、訪れる順番に鍵を開けてくれる。
入り口にまずあるのは植民地時代の宗教画、次に聖人の遺物や金や銀の聖杯
そしてハイライトがグアダルーペの聖母礼拝堂(1625年完成)の中にある。
それは町の聖人である聖女グアダルーペの絵画である。

1601年にフライ・ディエゴ・デ・オカーニャFray Diego de Ocana)に
よって元々描かれた。その後、裕福な教区民から寄付されたダイヤモンド、
アメジスト、真珠、ルビー、エメラルドがちりばめられている金と銀のコートを
かけられた。
その価値は数百万ドルで、アメリカでもっとも豪華な聖母といわれている

2013年2月9日土曜日

ボリビア⑬

スクレ②











歴史:
スペイン人がこの地に来る前、チャルカスはチュキサカ
谷の先住民の中心地であり、また宗教、政治、軍隊の指導者たちの
居住地として栄えていた。
     ↓
スペイン人が到来した後、南ペルーから現在のアルゼンチンのリオデラプラタまでは
チャルカスと知られるようになった。
1530年代、インカ帝国を滅亡させたピサロは兄弟であるゴンサーロ
この地に送り、先住民の鉱山活動を調査させた。ピサロはアルティプラーノに
関心を持っておらず、アンデス山脈の東のハイランドに集中して建設をすすめた。
その結果1538年、スペイン人はチャルカスの新しい都を完成させた。
それが現在のスクレで、Ciudad de la Plata de la Nueva Toledp
(新トレドの銀の街の意味)と名づけられた。
     ↓
当初町はペルーより支配されていたが、スペイン国王フェリペⅡ世
1559年にアウディエンシア(司法・行政・立法をつかさどる最高司法機関の
大審問院)をおき、東部領域を支配した。
     ↓
17世紀になると、町に大司教座がおかれ、1622年には
サンフランシスコ・ハビエル大学、1681年にはアカデミア・キャロリーナ法律学校
などが建設された。
     ↓
1776年には現在のブエノスアイレスに副王領におかれ、チャルカスは
その管理下に入る。そしてそのころ町の名前もラプラタからチュキサカへ変わった。
(ラプラタという名前が増えたため)
     ↓
大学や学校ができたことで、新しい考えや革命的な考えが生まれるようになり、
それが1809年5月25日チュキサカの反乱はアメリカ州の独立運動の
起爆剤となる。
     ↓
その後シモン・ボリバル率いる軍隊によって南アメリカは開放されていき、
ペルー独立後、1824年8月6日と12月9日のフニンの戦いとアヤクチョの戦いの
勝利で完全にスペインから独立した。そしてブエノスアイレスの管理下に入るか
どうかの議論がなされた。
1825年2月9日アントニオ・ホセ・デ・スクレはブエノスアイレスの
管理下に入ることを拒絶しこの国自身でこの国を管理すべきだと主張し、
完全な独立を果たす。ボリバルはスクレの案に反対していたが、
リマに置かれた国会でもブエノスアイレスからの分離が可決され。8月6日
チュキサカの自由の家で独立宣言がなされた。
そして独立の指導者ボリバルにちなんで、国名をボリビア共和国、初代大統領に
スクレが就任し、町の名前も最終的にスクレと改名された。

2013年2月3日日曜日

ボリビア⑫

スクレ①










人口:21万5800人
標高:2750m
スクレは国の中心といえる。それは地理的なことだけでなく、
独立宣言がなされた町である。1826年から1890年までは名実ともに首都
あったが、現在ほとんど政府関連省庁はラパスに移ったが
憲法上の首都は今でもこのスクレである。現在は最高裁判所があるだけである。

町自体は16世紀のスペイン植民地時代に建設されたので、今でもコロニアル様式
残っている。白く美しい町が多いため白の街と呼ばれることもある。
ボリビアで最も美しい街といわれている。美しい白壁の建物の内部には中庭があり、
そこにもコロニアル様式が残されている。政府はこの街並みの美しさを保つために厳しい
制限を課していて勝手に壁の色を黒く塗り替えることなどはできない。
1991年には、世界遺産に登録された。
スクレは周りを低い山で囲まれているため、温暖で快適な気候。