歴史:
スペイン人がこの地に来る前、チャルカスはチュキサカの
谷の先住民の中心地であり、また宗教、政治、軍隊の指導者たちの
居住地として栄えていた。
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スペイン人が到来した後、南ペルーから現在のアルゼンチンのリオデラプラタまでは
チャルカスと知られるようになった。
1530年代、インカ帝国を滅亡させたピサロは兄弟であるゴンサーロを
この地に送り、先住民の鉱山活動を調査させた。ピサロはアルティプラーノに
関心を持っておらず、アンデス山脈の東のハイランドに集中して建設をすすめた。
その結果1538年、スペイン人はチャルカスの新しい都を完成させた。
それが現在のスクレで、Ciudad de la Plata de la Nueva Toledp
(『新トレドの銀の街』の意味)と名づけられた。
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当初町はペルーより支配されていたが、スペイン国王フェリペⅡ世は
1559年にアウディエンシア(司法・行政・立法をつかさどる最高司法機関の
大審問院)をおき、東部領域を支配した。
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17世紀になると、町に大司教座がおかれ、1622年には
サンフランシスコ・ハビエル大学、1681年にはアカデミア・キャロリーナ法律学校
などが建設された。
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1776年には現在のブエノスアイレスに副王領におかれ、チャルカスは
その管理下に入る。そしてそのころ町の名前もラプラタからチュキサカへ変わった。
(ラプラタという名前が増えたため)
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大学や学校ができたことで、新しい考えや革命的な考えが生まれるようになり、
それが1809年5月25日の『チュキサカの反乱』はアメリカ州の独立運動の
起爆剤となる。
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ペルー独立後、1824年8月6日と12月9日のフニンの戦いとアヤクチョの戦いの
勝利で完全にスペインから独立した。そしてブエノスアイレスの管理下に入るか
どうかの議論がなされた。
1825年2月9日、アントニオ・ホセ・デ・スクレはブエノスアイレスの
管理下に入ることを拒絶しこの国自身でこの国を管理すべきだと主張し、
完全な独立を果たす。ボリバルはスクレの案に反対していたが、
リマに置かれた国会でもブエノスアイレスからの分離が可決され。8月6日に
チュキサカの『自由の家』で独立宣言がなされた。
そして独立の指導者ボリバルにちなんで、国名をボリビア共和国、初代大統領にスクレが就任し、町の名前も最終的にスクレと改名された。
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