面積:118km²
人口:164,481人
標高:4090m
人が住む都市としては世界最高地のひとつ。セロ・リコ(Cerre Rico 豊かな山)の
ふもとに位置する。そもそも銀の発掘のためにできた町、最盛期は20万の人口を
抱えた。植民地本国のマドリッドよりも人口が増えた。アメリカ州でもっとも大きな、
そして裕福な町となった。(西半球でもっとも大きな町ともいわれる)
現在でも『Valer un Potosi(ポトシのように豊かに)』という比喩が使われる。
現地にはインディヘナでケチュア語を話す人々が多い、スペイン語を話す人々も
増えてきている。
1987年セロ・リコ銀山含め、他の構造物と共にポトシは世界遺産に登録された。
歴史:
1544年、インディヘナのディエゴ・ワルパはいなくなったリャマを探していて、
ポトシ(potojsi ケチュア語で『雷』や『爆発』)の山のふもとで火をおこすと
地面が溶け出し、液体が流れ出てきた。そしてその噂を聞いたスペイン人は即座に
行動を起こした。
★ワルパは銀をスペイン人譲ったのには理由が....
インカには山に関する伝説がある。インカ王ワイナ・カパックは
『ポトシの丘は掘ってはいけない、鉱物はそのままにしておけ、
それは他人のためにあるものである』と、どこからともなく聞こえる声に
指示された。おそらくワルパはこの言い伝えを思い出したとも言われている。
スペインは1545年4月1日には、セロ・リコの麓にカール5世の命により
集落を建設。そして大々的な発掘が始まった。またあらゆるところから一攫千金を
狙い多くの鉱山業者がこの地にあつまり、いつしか町ができた。1561年には、
スペイン王フェリペ2世により、町の守護神に『サン・アグスティン』が指名され、
新しい紋章盾も付与された。
1572年、副王トレドの時代に採掘量を上げるためにミタの義務を原住民に課した。
★ミタ
18歳以上の原住民男子は12時間シフトの採掘を強制され、
約4ヶ月間衣食住、そして仕事すべて鉱山の中で行わなければならない。
多くの鉱山労働者は爆発などの事故のほかにケイ肺症で亡くなった。
スペイン人は原住民の他にアフリカから黒人の奴隷も連れてきて、鉱山で働かした。
そのアフリカ系民族の子孫は今でもユンガス地方で暮らしている。
また銀の精製方法がワイラス法から、水銀アマルガム法に代わる。
→銀鉱石を水力で粉砕し水銀と混ぜる、それを原住民に素足で踏んで混ぜさせ、
その後熱することによって水銀を飛ばす方法。熱した際に毒性の水蒸気があがる。
こういった条件のため、原住民やアフリカ系の奴隷の約800万人が犠牲になったと
いわれている。
1672年、町に造幣局が建設され、銀のコインが鋳造された。このころ人口が
約20万人に増え、世界で最大の町のひとつとなる。その人口を支えるため、
水の貯水湖や教会が建てられた。銀は1583年から1783年の間に
約45000トン採掘されたといわれている。その当時の言葉に、『新大陸から
スペインまで銀の橋を作っても、まだその上を渡ってスペインに送るほどの銀が
採掘された。』といわれている。採掘された銀は艦隊によりスペインに運ばれたが、
ときに暴風や海賊によって船がスペインまで辿り着かないこともあった。
しかし4世紀続いた銀の採掘も19世紀の半ばになると銀の価格が暴落し、
ポトシの町も衰退していく。その後近年錫が発見される、一時回復するが現在の
ボリビアの主要輸出鉱物である亜鉛と鉛が取って代わった。
それでもセロ・リコでは今も少しの銀と錫の採掘が行われている。
現在は鉱山労働組合によって運営されている。現在の採掘量は抗夫が食べていける位の
量である。それでもラッキーストライクを夢みて今でも抗夫たちは彫り続けている。
こういったセロ・リコを訪れるツアーがポトシの町の旅行者から出ている。
ポトシの名は…
メキシコのサン・ルイス・ポトシ、アメリカの鉛鉱山の町ウィスコンシン州ポトシ、銀鉱山の町ネバダ州ポトシはボリビアのポトシにその名を由来する。
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