5.カンパラ
人口:142万人
ウガンダの首都で最大の都市。
標高1190mに位置する。
「カンパラ」の名前はルガンダ語の
「Kosozi Kampala」=「Hill of
Antelope」に由来する。
気温:赤道直下であるため夏は
サバンナ気候
1月と7月-乾季
気温は25~27℃
3月~5月、11月-多雨とな
る。 このため緑豊かな丘陵に沿っ
て家屋が点在する都市となった。
歴史:
19世紀カンパラは象牙交易を進めるアラブ=スワヒリ商人の隊商ルートに
位置していた。
ローマと同じく最初この町は7つの丘のもとに建設された。
最初にこの町を建設したのはルガード植民
地行政官がカンパラヒルに1890年砦を設置したことに始まる。
その砦はケニアを活動の中心とした
帝国イギリス東アフリカ会社の権益を守るためのもであった。
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1896年にカンパラはイギリスの保護領とされたブガンダ王国の中央部に位置し、
首都であった。
★町を囲むカンパラヒル:ブガンダ王国の中心地
★北西2.5キロのカスビヒル(Kasubi Hill):1850年代の
カバカ・スウナ2世(Kabaka
SuunaⅡ)の中心地。
1882~1884年カバカ・ムテサ1世(Kabaka Mutesa
Ⅰ)の宮殿が
あった。
★メンゴヒル(Mengo Hill):ムテサの後継者ムワンガ(Mwanga)の中心地。
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独立(1962年)後エンテベからかわってウガンダの首都となる。
このとき大統領となったのがムテサ2世であった。
最初の10年カンパラは近代的な雰囲気に活気のある市場をもった緑豊かな町として
東アフリカ共同体の模範例とみなされた。また文化・教育の中心でもあり、
マケレレ大学は東アフリカの教育中心であった。
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しかしアミン支配下、アジア人は国外退去させられ、カンパラの地位は
落ちていきました。
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1986年、内戦終了。国内は無秩序であった。建物は骨組みがみえ、
壁には銃弾の跡だらけであった。そして戦火で荒れた地方からの移民があふれた。
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現在のカンパラ80年代の面影をまったく残していない。カンパラ通りには
ショッピングセンターやスーパーマーケットが立ち並ぶ。そしてカンパラ通りの北の
ほうには大使館やツーリストホテルが立ち並び、ナイロビやダルエルサラームにも
匹敵するほどである。町にはミニバスやタクシーが渋滞を作っている。
また多くのレストランやバーもあり、多くの観光客を魅了している。
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市内には東アフリカ開発銀行と総合大学のマケレレ大学がある。
※東アフリカ開発銀行は1967年にウガンダとケニア、タンザニアの3カ国が
発足させた東アフリカ共同体(EAC)の下部組織である。
→1967年に発足するが、1977年にケニアとタンザニアの主導権争いで
事実上瓦解。その後、1978年ウガンダがタンザニアに侵攻し
交戦状態となると完全消滅。
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2001年、ケニア、タンザニア、ウガンダの3カ国により再結成。
2005年には関税同盟が発足し、2007年にはルワンダ、ブルンジが
参画し計5カ国となる。
観光:
①オールドカンパラ
1890年砦と町を建設した場所。いくつかのアジア風の植民地時代の建物がある。
オールドカンパラはイスラム共同体があり、新しく建てられたモスクなどがある。
このモスクの建設は70年代イディ・アミンの時代に始まり、アミン失脚後しばらく
頓挫していたが、リビアのカダフィ将軍の援助で完成した。
モスクの横にはカンパラで現存する最も古い建物の1つである博物館がある。
しかしイチジク科のしめころしの木が絡みついていて、徐々に破壊されていっている。
②ウガンダ国立博物館
東アフリカで最も古く、もっともすばらしい博物館である。
最初に民俗学的研究に基づく展示を行ったのは1905年で、カンパラヒルの
ルガーロの砦の近くのギリシャ神殿で始まった。
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正式には1908年に建設される。博物館は地元のガンダ人には
「House of Fetishes」(呪術の館)と知られていて、展示品には超自然な力が
宿っていると信じられている。
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1954年、博物館は現在のキイラ通りに移転した。
植民地時代以前のアフリカの歴史とウガンダの歴史を知るには最高な場所。
またアフリカ大陸各地から集めた楽器、ウガンダの生活用品が展示されている。
③聖バリクデンベ市場
東アフリカ随一の露天市場で、市のある日には10万人以上の人出がある。
主な製造業は家具・機械部品。そして世界第9位の生産量を誇るコーヒー、
その他綿、茶、砂糖を海外に輸出する拠点である。