2013年4月20日土曜日

ベルギー⑤

ワロン地方①


ベルギーの連邦構成主体、3つの地域のうち、国土の南半分を占める地域。
ワロンという地域名の語源は諸説あるが、
ガリア語のvellaunos(勇敢な)という語に由来するという説が有力。
首府-ナシュール
面積-16,844 km²
人口-335万人

     エノー州
     ナミュール州
     ブラバン・ワロン州
     リエージュ州
     リュクサンブール州

言葉
ワロン語・ピカルディ語
⇒フランス語の方言とみなされ、使用頻度も減少していったが現在ではワロン語の授業が
 行われていたり、ラジオ番組が制作されたりしている。
 シャンパーニュ語、ロレーヌ語

経済
19世紀初頭にリエージュやシャルルロワをはじめとした地域で石炭や鉄鉱石と
いった資源を用いた工業を背景として急速に発達した。それにより、ベルギーは欧州で
最初に産業革命を成し遂げた国となった。しかし20世紀前半工業は北部に移行し、
ワロン地域での重工業は次第に衰退していった。
ムーズ川の南のアルデンヌ地方には多くの観光資源や温泉が存在し観光産業が
比較的良好な経済状態を維持している。

政治
1993年から連邦制に移行したことにより、ワロンは独自の政府と議会を有するようになった。議会の定数は75人で5年ごとに改選が行われる。

2013年4月14日日曜日

ボリビア⑲

チチカカ湖










面積:8562km²(琵琶湖の約12倍)
水深:107m(最大285m)
標高:3812m
湖面の60%がペルー40%がボリビア領
航行可能な湖として世界最高所にある。また数少ない古代湖。
41の島がある。27の川が流れ込むが、流れ出るの川は1つのみ。
流れ出る川はデサグワデーロ川Rio Desaguadero)で、小さい湖ウィニャイマルカ湖
Lago Hunaymarca 別名Lago Pequeno)へ流れ、アルティプラーノ南部のポーポ湖へ
と連なっている。支流への水の消失率は5%のみ、また強い風と太陽光のため、
蒸発が激しく、それがこの地域の気温を温暖に保っている。湖水の蒸発が激しいため、
水中の塩分の量も多く、1リットルあたり1グラムほどである。

1985~86年におきた洪水では道や船付き場などが水中に沈んだ。
そして多くの家が泥をかぶり、約20万人が避難しなければならなかった。
湖から唯一流れ出る川はデサグワデーロ川のみなので、水が引くまでに数年がかかった。
1998年8月ボリビア側の800km²がラムサール条約登録地となった。
またこの湖は海を持たない内陸国のボリビアの海軍基地がある。
     ↓
2000年以降チチカカ湖の水位が下がってきており、2009年の4~11月
だけで、水位が81cm下がり、これは1949年以降最も低い記録である。
またウル族と呼ばれる人々は450年前に陸地を離れて、湖上に住み着いた。
現在でもトトラと呼ばれる葦を3mの厚さに束ねたもので浮島を作り700人ほどが
ウロス島に定住している。

名前の由来と伝説
正式な名前の由来はわかっていないが、伝説ではピューマの岩と訳される。
それは湖の形がピューマがうさぎを狩る姿をしていることからそういわれる。
またアイマラとケチュアの言葉を合わした名前だとも言われている。

見所:
①太陽の島(Isla de Sol
伝説では、太陽そのものまた最高神ウィラコチャが生まれた場所だといわれている。
またインカの祖先の一人マンコ・カパックとその妻ママ・オクリョ(Mama Ocllo)が
生まれた場所とも言われている。

チチカカ湖で最も大きい島のひとつ。約21km²
歴史:
はじめに人が住み始めたのはBC2000年頃とされている。そしていくつかの遺跡も
作られた。そしてティワナク文化の時代がおわり、インカの時代(15世紀~16世紀)
には島の遺跡は聖域として利用された。島にはインカの時代の遺跡が約180はある。
     ↓
植民地時代には島は北部がチャリャ(Calla南部がユマーニ(Yumaniという
2つのアシエンダ(大農園)にわかられていた。
     ↓
現在でも島には約2500人の人が暮らし、車はなく、舗装された道もない。
人々はおもに農業、漁業、そして観光業で生計を立てている。農業は段々畑の
テラスで、ジャガイモキヌアとうもろこしをつくっている。とうもろこしの
栽培は他のアルティプラーノでは寒さのため不可能であるが、湖内部のこの島では
昼間に熱を吸収した湖水が、夜間は暖かい蒸気となって島を覆うため温暖なため
農業に適していて、とうもろこしの栽培も可能である。

2013年4月8日月曜日

ボリビア⑱

ティワナク遺跡①










ティワナクについてはまだ研究が進められている段階で、詳しくはわかっていない。
それはティワナクの人々は文字を持っていなかったためである。
2000年に世界遺産に登録
最盛期には2.6km²の土地に2万人が暮らしていたといわれている。

歴史:
ティワナク文化はBC500~1200年の間で5期分けられる。
第1期
 BC500年中ごろ、ティワナクに人々が到来し始める。
第2期
 壺などの陶器(水平な持ち手のついた壺)や人や動物の彫像などが作られ始める。
第3期(BC300~500年)
 幾何学模様の3色の陶器が作られる。
第4期
300~700年、巨大な祭祀建造物が建設されるようになり、多くの巡礼者
が訪れる場所となる。青銅と金が使用されるようになり、この時期の陶器は擬   
 人化されたものが作られた。 
第5期
 最盛期を過ぎ、1200年ごろティワナクの人々は忽然姿を消した。

見所:
ティワナクの遺跡に使用されている石は1つ25トンもする玄武岩や砂岩の塊である。
玄武岩は40km離れたコパカバーナの半島の砕石場から持ってこられた。
砂岩ですら5km離れたところから持ってこられている。この地を征服した
スペイン人はアイマラ人にどのように遺跡を建設したのか尋ねると誰もが
『ヴィラコチャの助けを受けて』と答えたという。

・アカパナ ピラミッド(Akapana pyramid
高さ16m7段の階段状の基壇で、大きさは200㎡
頂上部分には半地下式広場が設けられている。周囲には方型の部屋が配置されている。
そこからは銀、銅製品が出土している。当初楕円形のピラミッドの四隅に石の排水溝が
あるため、貯水槽として利用されたと考えられていたが、最近の調査で、
トロフィーのようなものが発見され、ピラミッドは戦勝記念の神殿として利用
されていたのではないかと現在は考えられている。

・カラササヤ(Kalasasaya
ピラミッドの北に位置する。巨大な壁に囲まれた130×120mの広場
赤い砂岩安山岩の巨大な石をしっかり組み合わせた壁(切石積み)で
支えられた基壇で、基壇上には石像(ポンセの石像)や太陽の門がある。
しかし修復はかなり間違えて行われたようで、太陽の門も現在の位置ではなく、
元の位置は不明である。











太陽の門(Puerta del Sol)
 安山岩の一枚岩を組み合わせており、その表面には彫刻が施されている。
まぐさ部分の中央に彫られた両手に笏を握る杖の神の像、アイマラ語で
トゥヌパと呼ばれる雷神・天空神を表したとえられる。
また太陽神ヴィラコチャとも言われている。
そしてその脇には48人の光芒をし、手には笏を握り、
背中に羽をはやして走る鳥人描かれています。
門にあるくぼみは太陽神へのお供え用に利用されたといわれている。
また門全体がある種のカレンダーとして利用されたとも考えられている。
この門の重さは少なくとも44トはあるといわれている。         
ポンセの石像
代表的な一枚岩(monoliths モノリート)の石像

・半地下式神殿(Templete Semisubterraneo
赤い砂岩でできた26m×28mの神殿。その真ん中には半地下の長方形の広場が
あり、壁には175個の石の顔がある。
1960年代考古学者たちが神殿を再建するために石と石の間をセメントで固めたため、
今みるような形になっている。