7.アクレ戦争とチャコ戦争
自由党が政権を握ってすぐ、ブラジルとの間にアクレ戦争がおきる。
★アクレ戦争(Acre War1899~1903年)
1885年ガソリン自動車が発明されて以来、自動車のタイヤ生産に必要なゴムの需要が急激に増加した。当時まだ天然ゴムしかなく、その原生林はボリビア、ペルー、ブラジルの国境地帯にあり、独立以来国境線が不確かであったため、ブラジルとボリビア両国で東西に国境線が引かれた。
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そしてボリビア側はゴム業者から税を取り立て、密輸を厳しく取り締まった。それを快く思わないスペイン人ルイス・ガルベス率いるゴム業者はボリビアからの分離独立を宣言、この分離運動はボリビア軍によって制圧される。その後、ボリビアは米国企業「ボリビア・シンディケート」社にアクレ地方の管理開発権を委譲した。
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米国の南米の直接介入を恐れたブラジルは抗議する。そして1902年、ブラジル人
ゴム業者プラシド・カストロが第2次分離運動を起こす、今回はブラジル政府の援護
も受けていた。全面的な戦争になることを恐れたボリビア側は外交的な解決を求め、
1903年11月ペトロポリス条約が終結され、200万ポンドの補償金と鉄道敷
設権と引き換えに、約19万km²(日本の約半分)に及ぶアクレ地方をブラジルに割
譲した。
自由党の政権は1920年ごろまで続き、インフラ整備や都市の近代化を図りつつも保守党が固めてきた先住民への支配体制は維持された。1929年、世界恐慌により錫の輸出が低迷し、ボリビアは失業率が増加する。そんななかサラマンカ大統領は国民の関心をそらすため、またリトラル県を失って以来切望していた海への出口を大西洋に求めてチャコ戦争を起こす。
★チャコ戦争(Chaco War 1932~1935年)
1932年、錫の輸出が落ち込み、未開発であったグランチャコの石油開発を目論見、パラグアイに戦争をしかけた。1935年まで続いたこの戦争で約8万人が犠牲になった。1935年、アメリカの仲介で、ブエノスアイレス講和条約が締結され、戦争は終結する。そしてボリビアは24万km²という広大な土地を失う。
8.ボリビア革命
チャコ戦争での敗北は白人による支配体制への嫌悪感を住民の中に生んだ。そして混血層の軍人や知識人のなかに変革を目指す「チャコ世代」が形成された。その中でも鉱山労働者と関係を結び錫財閥と対立関係を明らかにしたのがパス・エステンソロやゲバラ・アルセらによって結成された民族革命運動(Movimiento Nacinalista Revolucionario 略してMNR)である。
1943年クーデターで政権を握ったビリャロエル政権へ入閣を果たす。パスは経済相となる。ビリャロエルは暗殺されるが、労働者と農民の間の関係を広げ、ポピュリスト運動の基盤を作り上げた。
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1951年、地下で活動を続けていたパス・エステンソロらMNRは選挙で勝利を収める。しかし保守政権はこれを認めず、軍へ政権を譲った。そして1952年、シレス・スワレ率いる革命軍が蜂起し、ラパスでの市街戦の末、政権を獲得した。そして亡命中のパスが大統領となる。
パスは大統領になるとすぐに、
・錫財閥の解体
・鉱山を国有化し鉱業公社を設立
・普通選挙の導入
・無償教育の普及
・農地改革を行いアシエンダを解体。
先住民に選挙権が与えられ、アシエンダは耕作するインディオ個人に農地が分配された。そしてインディオという言葉は禁止され、カンペシーノ(農民)と改められた。
これら一連の改革をボリビア革命と呼ぶ。メキシコ革命に次ぐラテンアメリカ第2の社会革命である。
しかしアメリカやIMFの支援を受けたにもかかわらず、国民の生活水準は上がらず、一人あたりの国民所得は1960年610ドルだったが、35年後も780ドルにとどまった。
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MNRの政権は12年間いろいろな大統領のもと続くが、次第に鉱業公社(COMIBOL)は労働者勢力を地盤にもつ中央労働本部とともに知識人と中心とし、政府に要求を突きつける強力な存在となっていった。これらの抗議を抑えるため、第2次パス政権はアメリカの支援のもと軍を再建する。
★アメリカは冷戦の最中で、ボリビアの共産主義化をおさえるため、「進歩のための同盟」のもと支援を行った。ボリビアは一人当たりの額でアメリカの最大の援助受け取り国となった。